永作博美の笑顔
永作博美の少し横長い顔。人懐っこい笑顔は、若い頃と変わらない。誠実に人に向き合い、自分にもポジティブだ。企まざるユーモアが、愛らしい笑顔いっぱいに拡がる。とびきりの美人ではないかもしれないが、女らしい色香はすこぶる魅力的だ。そんな永作の化粧っ気のない顔が、幾度もアップで映される。年輪を経た笑顔は慈愛に満ちているが、否が応でも口元や眼尻の皺は目立つ。
この顔を撮った河瀬監督は、永作と同世代の女性だ。容色の衰えを隠さない女性像を想定した河瀬に対して、永作は怯まず笑顔で応えた。人工授精を巡って夫(井浦新)との絆を丁寧に紡ぐ表情、息子との会話に幸福を感じる笑顔、幼稚園でのトラブルへの戸惑い。母親として懸命に生きる姿は、率直で清々しい。
映画がラストに近づくころから、彼女の容貌は神々しい生命力に溢れてくる。突然現れた産みの母親(蒔田彩珠)を拒絶する顔。最愛の息子を守り抜く決意が、固く結ばれた唇に滲み出る。この唇には口紅が塗られてない。もう男の気を引く必要はないのだ。
最期に永作は、蒔田の心の傷みを理解し、彼女に息子を引き合わせる。事の本質をつかんでいない息子の、すっとぼけた顔。永作の表情には、蒔田への母性愛まで溢れてくる。永作と蒔田こそ、母娘にふさわしい年齢なのだ。そんな母性愛の深さを垣間見せて、映画は終わる。
普遍のラブストーリー
蒔田彩珠は中学2年で妊娠し、映画ラストでは18歳~19歳となる。彼女は、多感な5年間の推移を見事に演じた。平凡な少女が、平凡な同級生に、体育館裏で告白される。惹かれあう二人の恋情が、性欲に結び付くのはごく自然な成り行きだ。うぶな二人のキス、愛撫のシーンが美しい。若い男女の純粋な恋情がどれほど尊いか、映画の普遍的テーマが見事に表現される。
恋が深まる過程、妊娠発覚後、出産、単身上京してからも、蒔田は、信頼できる人以外に心を開かず、寡黙を貫く。醒めた切れ長の眼は、大事なもの以外をすべて黙殺している。
人は、自分の感情を偽る。感情が周囲に受け入れられるか、慎重に見極め、前例を周到になぞり、感情を加工して提示する。これを繰り返していると、加工前の源泉の感情は、摩滅していく。
蒔田は、このプロセスを意識的に回避しているわけではない。彼女はただ、自らの感情を持て余しながら、必死に向き合っているのだ。人は初めて異性に愛されたとき、狂おしいほどの喜びに溢れる。女としての自分を欲求する男がいる。経験がないならば、映画や漫画のストーリーを参照するものだが、彼女はそうはしない。求愛の段階では、女のほうが有利な筈だが、そんな駆け引きもしない。ただ、愛を、強く、静かに受け止める。
大人の恋愛は愛情に溺れすぎることを回避するが、彼等の幼い恋愛は、混じり気のない普遍だ。「朝が来る」は普遍のボーイミーツガールを描いたラブストーリーとして、映画史上に永遠に刻まれるだろう。
同調圧力と多様化
LGBT法案が、成立へ向けて進んでいる。選択式夫婦別姓も議論されている。政治の世界も多様性のある社会へ向けて進みつつある。しかしここには、LGBTや選択式夫婦別姓に反対する人を糾弾するトーンが多分に含まれている。これは多様性ではなく、同調圧力だ。古いものへの忍従も、新しいものへの変貌の強制も、同調圧力であることには変わりない。古かろうが新しかろうが、人は多様な考えを持つ自由がある。
蒔田が暮らす奈良の地域社会では、中学生が出産することは絶対に許されない。両親だけでなく、親戚一同の合議で養子縁組ボランティアへの委託が決定される。しかし、親戚が近隣に暮らしているコミュニティならば、一族の協力で子供を育てることも可能なのではないか?
中学生の蒔田が子供を育ててはいけないことへの同調圧力は、有無を言わせない。一方、核家族である井浦/永作夫婦には、子供を産むことへの同調圧力はない。井浦/永作は蒔田を引き取って一緒に暮らすことを選択するのか? 息子は、二人の母親に愛されて育つのか? その人生にも苦難が待ち受けているはずだが、映画はそこまでは描かない。
井浦新の成熟
40歳を過ぎて井浦新は、日本を代表する俳優となった。若い頃の爬虫類的に冷たい風貌は、エキセントリックな煩悶を常に抱えているようだった。しかし井浦は、その煩悶をじっくりと観察しながら飼いならそうとしているようにも見えた。果たしてその煩悶は、特に解決もされず、肥大して外部に侵食することもなく、自然に彼の外部と融和したように思える。融和された煩悶は、渋い意匠の彫刻のように、彼の無表情を少し変え、印象深い中年男の顔つきとなった。
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(2008)」、「空気人形(2009)」では、青年期のエキセントリックな感性を研ぎ澄ませた。「かぞくのくに(2012)」では、北朝鮮の不気味さを静かに体現した。「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち(2012)」が転機だったのだろう。ARATAから井浦新に改名し、晩年の若松孝二の衰えぬ膂力を柔らかく受け止めた。「止められるか、俺たちを(2018)」ではその若松孝二を演じ、「宮本から君へ(2019)」ではダメな大人の身勝手な魅力を巧みに造形した。
「朝が来る」の主役は永作博美と蒔田彩珠であるならば、井浦はあまり表に立たず、女の性の壮絶さを受け止め、静かに怖れ、ゆっくりと理解している。
河瀬直美が描く女性の深み
奈良の山森に流れる静謐な時間を描いた諸作で登場した河瀬直美は、まるで北欧の映画監督のように、森の生命力に寄り添う人々を静かに映し出した。国土のほとんどが都市化された日本のなかで、飛鳥や吉野には古代の原日本的佇まいが残存しているのだ。
「朝が来る」では、奈良と対極ともいえる有明が舞台となる。30年も前から開発された埋め立て地には、ショッピングモールやイベントホールも建てられ、東京ビッグサイトは日本最大の展示会場として定着したのだが、有明は、未だ人の気配の薄い、水辺だ。井浦/永作夫妻はこの有明のマンションに暮らしている。社内結婚の二人が勤める職場は、細部まで描かれないものの、大手企業なのだろう。井浦は中間管理職で、永作は結婚後退職している。経済的にもある程度余裕があり、クレバーで誠実な夫婦。こんな理想的な夫婦像は、もはや今日的ではないかもしれないが。
蒔田は、瀬戸内海の小島の養子縁組ボランティアで出産する。古代から畿内と朝鮮を結ぶ海路であり、中世には海賊が跋扈した瀬戸内の島々。市川崑監督「獄門島(1977)」で描かれるように、これらの島々は流刑人が流されてたどり着く辺境でもあった。
映画では、この瀬戸内海と東京湾が同じ海として繋がっていることが示唆される。地球上の海はすべて繋がっており、海は一つしかない。奈良の古風な地域社会、海と風がせめぎあう瀬戸内海の小島、大都会の空虚な埋め立て地。3つの土地は、それぞれ独自の風土を持ちながら、日本という優しい国柄の元、緩やかだがしっかりと繋がっている。
河瀬直美は、恋愛と出産という普遍の物語を、さまざまな側面を持つ日本の風土にしっかりと繋げた。永作博美と蒔田彩珠は、女性の愛情の細やかな深みを体現し、神々しいほどの笑顔を見せた。彼女たちは、決して表層にとらわれない。人生の本質を受け止めて、確実に紡いでいくしなやかな女性の魅力が、「朝が来る」には満ち溢れている。
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