あらすじ
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ある夜、伊右衛門は、自分の旧悪を知っている妻、いわの父、四谷左門におどされ、闇討ちにした。その頃、伊右衛門の仲間の直助は、恋の遺恨から、佐藤与茂七を殺そうとした。しかし、殺されたのは、人違いで与茂七の仲間だったが、直助は気づかなかった。いわとその妹で与茂七の妻のそでは、父や良人を失って悲しむが、伊右衛門と直肋は、何喰わぬ顔で仇討の助太刀を約束する。しかし、伊右衛門といわの仲は次第にまずくなっていく。そんな生活の中で、伊右衛門は隣家の伊藤喜兵衛の娘、うめと恋仲になっていった
人工的な巨大都市
江戸は、異形の魅力を放っている。江戸城大奥、豪商が軒を連ねる日本橋、武家屋敷の長い塀、蝉がかまびすしい寺社、郊外の荒涼とした草原、死体が発見される湿地帯。
京都、大坂は言うまでもなく、金沢や名古屋と比べても、江戸は歴史が浅い。18世紀初頭には人口100万人を超え、当時世界一の人口を擁した巨大都市江戸は、徳川幕府以前には小さな寒村だった。人工的に築かれた町では、華やかな場所と荒地がアンバランスに交錯する。例えば現代では、札幌やつくばにその相貌が見える。
荒地には浪人がいる。浪人は刹那的にやさぐれている。そんなアウトローそのものといえる俳優はショーケンこと萩原健一しかいない。
70年代的なアウトロー
ショーケン演じる民谷伊右衛門は、女を道具にして仕官を繋ぎとめる浪人だ。三船敏郎的な豪快な野武士でもなく、山形勲的な悪代官でもない。ましてや加藤剛のような勧善懲悪的な奉行でもない。しいていえば、市川雷蔵演じる眠狂四郎の系譜か。眠狂四郎は「転び伴天連」の子であり、「女は抱くものだと心得ておる」と嘯く無頼の徒だが、雷蔵の妖気は呪術的な貴種性を発散しており、「円月殺法」の優美さは、歌舞伎の様式美をも継承している。
対して、ショーケンのアウトローは、徹底的にリアリズムである。演劇的なデフォルメを排して等身大の任侠を演じた「股旅(73)」。大正のデカダンな歌人に仮託した「もどり川(83)」。本作も含めて、時代の風俗フォーマットにとらわれていない、唯一無二のアナーキーな個性だ。
強くもなく、正しくもない。自分勝手に小さい打算を策略しては、挫折を重ねる男。わけのわからない美意識を振りかざし、強引にことを進めるが、すぐに飽きてしまう。躁鬱気質のジャンキーに美人は簡単に惚れてしまうが、まともに顧みず、次々と別の女を犯す。犯されている女は、早めに抵抗を止め、事後には甘く纏わりつく。
これは、浪人でも歌人でもない。単なる萩原健一そのものであり、このアウトロー男の虚無は、70年代の爛れたロックンロールの精神性を象徴している。
和製ロックンローラー
日本のロックは細野晴臣派と内田裕也派に分かたれる。大学在学中から音楽活動を始め、難解なコード進行の曲を作り、アイドルに提供したヒットソングで印税を稼ぐ、細野とその系譜。キャバレーやディスコのハコバンとして下積みを経験し、セックス/ドラッグ三昧の爛れた生活のなかから、成り上がっていく裕也とその一派。
グループサウンズ期に、テンプターズのメンバーとしてデビューしたショーケンは後者の代表格だ。ギターがうまいわけでも、曲を書くわけでもない。新しいタイプのアウトローの感性を、独自のヴォーカルスタイルで表現し、和製ロックンロールの一つの在り方を創出した。拗ねたキャラクターが親しみやすさをも感じさせ、70年代に俳優としてブレイクしたアウトローは、80年代には、更にエキセントリックになり、その感性が音楽に結実した。「Don Juan(80)」「D’erlanger (82)」「Thank You My Dear Friends(84)」と傑作アルバムを連打する。
80年代のオッドな成熟
80年代初頭、角川映画は、相米慎二、森田芳光、根岸吉太郎など、エキセントリックに異才を放つ新人監督を次々に世に送り出した。日本映画黄金期の撮影所システムはすでに解体し、映画スタアの主演作は激減した。ベテラン監督たちは、安定的に新作を量産できなくなったが、迷走のなかで独特の才能を深化させた者もいた。その代表である鈴木清順や佐藤純彌は、日活や東映のカラーに覆われていた異形な感性を剝き出しに露出させた。そんな映画では、様々な出自の新人俳優たちが70年代的な鬱屈をつぶやき、至極真面目に、人を殺したりしていた。
「魔性の夏」も、その系譜に位置する。夏目雅子は、ここでは比較的まともだが、関根恵子の幽霊姿は、化けて出ているくせに、妙に優しそうだし、森下愛子の白痴的なバカ女ぶりには、かなりイラっとさせられる。小倉一郎は眉毛がなくてちょっと怖いが、やはり気が弱そうだし、石橋蓮司は、ショーケン以上に姑息だ。彼等がそれぞれ勝手に突き抜けているので、映画全体が小気味よく転がることはなく、異形の演技群はごちゃごちゃとまとまりがないが、熱気だけは高い。
蜷川幸雄の演劇的熱度
舞台演出家の蜷川幸雄は、この「熱気の高い」人種の筆頭格だ。意欲の低い役者をいじめぬく蜷川の演出は、精神の強度を過剰に要求する手法である。その差配で動き、彼に心酔している役者だちは、エキセントリックな自意識をこじらせていく。
蜷川は5本の監督作を残しているが、唐沢寿明主演の「嗤う伊右衛門(04)」では本作とは全く別の伊右衛門像を描いており、ブルーやグリーンが幽玄に揺蕩う美しい映像が印象的だった。二宮一也主演の「青い炎(03)」、吉高由里子主演の「蛇にピアス(08)」では、ショーケン的アウトローの要素を持った10代の心象を描いた。ヒリヒリとした怒りの感情の潜伏や露出は、やさぐれてばかりのショーケンよりも余程真摯で、忘れられない痛点のような余韻を残した。これら蜷川晩年の作品群は、熱気をグッと抑えた透明感が鮮やかで、作品を小さな玉に収斂させていくかのような作風だった。若い俳優たちも瑞々しい映画的感性を披露したが、あくまで蜷川の素材として規格内にとどまっていたとも言える。
そう考えると、映画が破綻するほど規格外の存在である萩原健一が、蜷川と喧嘩腰で格闘し、荒地で真剣を振り回し、女優に本気で惚れさせている本作が、やはり蜷川映画の最高傑作だと思える。
江戸とアウトロー
メンズビギをまとったショーケンは、新宿/代々木/表参道に生息していたが、着流しのショーケンは四谷/湯島あたりをさまよっている。新造都市である江戸には、生産者たる農民は少なく、武士や商人、僧侶のほか、士農工商の埒外に蠢く雑多な輩が全国から集っていた。
家督を継ぐことのできない、農家の次男、三男は浮浪の果てに江戸の貧乏長屋にたどり着く。河川や海岸の土木工事に従事する彼らの日常には、三味線を抱えた旅芸人、陰陽師もどきの占い師、遊女くずれの売笑婦、寺社でバッタものを売るテキヤ、怪しげな薬を煎じる藪医者、威勢のいい駕籠かきなど、堅気ではない輩たちが取り巻き、農耕民族の安定感とはかけ離れた、アナーキーなその日暮らしを営んでいた。
そんな有象無象を従えている伊右衛門は、唐傘など張りながら、岩(関根恵子)の婿として禄を食み、ダラダラと寝転んで暮らしている。そんな不行状を詰問する岩の父(鈴木瑞穂)を殺害した伊右衛門だが、より裕福な武家の娘、梅(森下愛子)に惚れられ、次第に岩が疎ましくなる。梅の父(内藤武敏)にそそのかされ、伊右衛門は岩に毒薬を盛る。醜くはれ上がる岩の顔。按摩の宅悦(小倉一郎)に岩との不義密通を命じ、それを理由に岩を斬り捨てる。その後、岩の幽霊が現れるようになり、錯乱した伊右衛門は梅とその父まで殺害する。
合掌
残念ながら、萩原健一は今年亡くなった。私は昨年5月、六本木のビルボードライブ東京に出向き、生前の萩原のライブを至近距離で観ることができた。
腹が突き出し、動きも緩慢で、衰えが目立ってはいたが、生で見る眼光の迫力はやはり凄まじかった。錯覚であろうが、一瞬目があったように思った私は、長年憧れてきたカリスマの、本物の邪悪さに震え上がってしまった。
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