日本映画史上最大の狂気
松田優作は、日本映画史上最大の狂気である。優作は、短いキャリアの中で、それほど多様な人物を造形していない。反社会的な意匠をまとってはいるものの、反社会性は彼の本質ではなく、内部に巣食う狂気の表現こそが優作の目的であり、狂気を内在させた人物の怪物性を顕現させ続けた。
優作は1949年に生まれ、1989年に死んだ。我々は、40代の優作が90年代に北野武と格闘する壮絶や、50代の優作が龍平に与えたであろう多大な影響や、60代の優作がアクションに回帰する驚きなどを夢想してみるしかない。唯一無二の才能が残した作品は、あまりにも少ないのだ。
「人間の証明(77)」「最も危険な遊戯(78)」「蘇る金狼(79)」といった初期傑作群では、走り、撃ち、殴るアクションのダイナミックさと、ハードボイルドにアウトローな佇まいに、コミカルな味付けをまぶしたキャラクターを創出し、人気を得た。夭逝したスタアの常として、優作は熱狂的に崇拝されているが、崇拝者たちの理想とする優作像は、この当時のテレビドラマ「探偵物語」が代表している。
しかし、本物の狂気は80年代に入って先鋭化する。本作を皮切りに、鈴木清順の大正ノスタルジーの世界にたゆとうた「陽炎座(81)」、森田芳光が家族制度の解体を露悪的に描いた「家族ゲーム(83)」、根岸吉太郎が70年代的な探偵の無様な後日談を描いた「探偵物語(83)」、インテリの愚鈍さを狂的に滲ませた森田芳光の「それから(85)」、唯一の自身の監督作品「ア・ホーマンス(86)」。
トリッキーな名匠監督たちの最高傑作群において優作が見せた狂気は、何度も観返す度に味わい深い絶品であるが、そのなかでも先鋭度が高いのが「野獣死すべし」である。
狂気性の勝利
刑事を殺し、拳銃を奪った優作が、違法カジノを襲い、現金を強奪するところから映画は始まる。基本的にこの映画で優作が実行することは、殺人と、金の強奪だけだ。
次のターゲットを都心の銀行に定め、リサーチを進める優作は、3人の人物と出会う。この3人を支点にして、優作の狂気性は浮彫りとなっていく。
一人目は、レストランのボーイである鹿賀丈史。鹿賀は、野獣の眼をした男である。こんな凶暴な眼をした男は、現代にはいない。凶暴性を露わにした存在である鹿賀に対し、優作の眼は虚ろに死んでいる。優作は、銀行強盗の相棒として鹿賀を誘い、試す。その過程のなかで、ギラギラした鹿賀の凶暴性が、実は人間らしい様々な葛藤に縁どられていることが描かれていく。対して、優作には凡庸な感情など一切ないことが対比される。
二人目は、クラシック音楽のコンサートやレコード店にて知り合う小林麻美だ。スタイリッシュかつ、清楚に美しい小林だが、出会った当初から優作に惹かれる。彼女が優作の内なる狂気までも見抜いているとは思えないが、彼へのストレートな恋情はその柳眉に強く刻まれている。これほどまでの美女に好意を持たれて、流石に悪い気はしない筈だが、結果的に彼女を射殺するときの優作には、一縷の迷いもない。
三人目は、刑事の室田日出男だ。一匹狼刑事、室田は、単独行動で優作と接触するが、自らのしがない境遇を揶揄する言い草あたりが、俗世間のテンプレートをいちいちなぞっている、俗物の典型のような男だ。その卑小な愚かさが許せなかったのか、優作は、ロシアンルーレットゲームで室田を弄ぶ。
結局3人とも優作に殺されるのだが、ある意味で三人とも映画的な、よく映画に登場する人物の類型である。脚本の丸山昇一、村川監督、優作は、三者三様の彼等をあっさり射殺することで、優作の狂気性に勝利を与えている。
都市の掃きだめに棲む、チンピラである鹿賀。高嶺の花である銀座OLの小林。幾多の刑事ドラマで食傷過ぎるほど描かれてきた刑事像をなぞる室田。こんな矮小な個性は、本物の狂気の前では、路傍の石ころにすぎない。村川監督は、実世界の俗物も、映画界が繰り返しして来たおざなりの人物類型も、唾棄したかったのだろう。
優作のナルシシズム
だが、優作にとってそれらの唾棄は、サブの目的でしかない。彼の本意は、ナルシシズムの顕現だろう。それほどこの映画では、優作の自己満足的な存在感のアピールが全編にわたって描かれる。
典型的なのは自室のシーンだ。70年代の優作は、自室でハードなトレーニングをしていた。腕立てふせ、銃の早撃ち、飛び蹴り。犯罪を完璧に遂行するために、ストイックに自分の身体を鍛えぬいている姿も、ナルシスティックではあったが、ハードボイルドな犯罪者としては、当然の準備である。
「野獣死すべし」の優作は、悪の組織のアジトのような、窓の全くない地下室に住んでいる。この部屋で最も重要なのは、オーディオ装置だ。大音量でクラシック音楽を聴き、スピーカーに頬ずりしたり、椅子に蹲ったりしている。完全にコミュニケ―ションの意思を欠落させた、引きこもりだ。東京大学の同窓会に出席するも、エリート候補生になりつつある同窓生とのコミュニケーションは全く成り立っていない。
70年代のアクションスターとしての優作は、石原裕次郎の系譜に位置しながらも、ハードな肉体性、寡黙な悪党ぶりで、新しい造形を創造したのだが、この人物像もある類型から完全に抜け出してはいないとも言える。
肥大しきった優作のナルシスは、完成された自らのパブリックイメージを捨て去り、全くわけのわからない人物になりきることで、その変態性を満たそうとし始めたのだ。
夜行列車でのロシアンルーレット
東北へ向かう夜行列車で、優作は、刑事の室田にジワリジワリと追及されるのだが、全く動揺しない。室田から拳銃を奪った優作は、室田にロシアンルーレットを仕掛けて、弄ぶ。「リップヴァンウィンクル」の話をし始めるのだが、この話が、現状と何の関係があるのか、さっぱりわからない。脂汗を浮かべて恐怖に慄く室田に対して、優作の表情はあくまで虚ろな無表情だ。刑事を追い詰めている悦びから、せせら笑いを浮かべたり、殺意に対する感情の迸りが現れて興奮することもない。虚ろな眼は何も見ていないし、こけた頬から発せられる声は、完全に虚無に支配されている。
死の恐怖をリアルに表現する、巧い俳優である室田日出男。松田優作の狂気とナルシシズムは、巧い演技などというものを嘲笑っている。人間の感情や性格に類型があるごとく振る舞う演劇性。自らのアクションスター時代も、そんな範疇に留まっていた。しかし、人間の深淵はそんな単純なものではないし、自分は当然、演技派俳優などではない。自らの奥底に巣食う狂気を自らの理性にて、いかにコントロールし、可視化するか。可視化された無表情は、観客の心を揺さぶる魔力を宿しているか。
映画史上最高の狂気表現
狂気そのままの姿ではなく、理性と感性によって高度に変質させることで、映画的な造形とし、その造形で自身のナルシスを満たしながら、観客の眼を意識した客観性も宿している。まさに映画史上最高の狂気の表現である。
ロバート・デ・ニーロや、デニス・ホッパーと同じアプローチなのだが、優作は彼等を大きく凌駕している。デ・ニーロは、ハリウッド的な映画人としてのインテリジェンスが残存しているし、ホッパーにはロックンロールな退廃が強すぎる。
優作が残した作品群は日本映画の至宝であり、その作品を何度も観ることで最高の芸術に触れられる幸福は我々に残されてはいるのだが、返す返すも、40歳での早逝は惜しい。
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