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市川崑監督「悪魔の手毬唄」1977 レビュー

市川崑監督「悪魔の手毬唄」1977 レビュー

クールな映像の美しさ

日本の山村。冬枯れて葉を落とした淋しげな枝が、寒風に吹かれてサワサワとしなる。俯瞰で見ると山々は、微妙なグレーの色合いに沈み、寂寥のなかに佇んでいる。そんな山あいの谷間に建てられた「亀の湯」。瓦屋根のくすんだグレーは、周囲の木々と絶妙なグラデーションを奏で、この宿の奥に温泉が湧き出ていることを、慎み深く隠している。

市川崑の映画の魅力は、映像の美しさにある。大映時代の傑作群では、京都や東京の街並みを鋭く活写したが、「悪魔の手毬唄」は岡山の山村を舞台とした連続殺人事件である。

若い娘たちの死体から流れる赤い血が、山村のグレー基調にビビッドなコントラクションを与えるのが定石なのだろうが、むしろここでは、血の衝撃度は少し抑制され、グレーの寂寥が大きくかきみだされることはない。

市川崑は、日本の山村の風土や伝統が好きなわけではない。あくまで映画作品として、自身の美的感覚に即した映像の素材として、クールに映像化しているのだ。

「亀の湯」に置かれた捜査本部では、若山富三郎や加藤武が様々な推理を働かせるが、天井の低い温泉は、警察の迷走の閉塞感を視覚的に助長している。

 

岸恵子の洗練

滋味あふれる映像の佇まいの中、最も輝いているのは、岸恵子だ。石坂浩二や若山富三郎は、彼女の輝きを引き立てるために存在する平凡な中年男に過ぎない。仁科明子や北公次などの若者世代も、常識的な好青年の枠を出ていない。

しかし普通に考えると、岸恵子の洗練は、田舎宿の女将には似合わない。彼女は1957年にフランスの映画監督と結婚し、この映画の撮影時にもパリに在住していたはずだ。「黒い十人の女」以来16年振りの市川作品への出演のため、来日して撮影に臨んだものと思われる。

「黒い十人の女」は、東京のテレビ局を舞台にして、洒脱のなかに虚無を浮き出させた傑作だったが、ここでの岸恵子は、クールな女優を演じており、その都会的洗練は、ジャンヌモローやカトリーヌドヌーブに匹敵していた。

蓮っ葉な口をきくカッコいい女優役から、鄙びた温泉宿の女将へ。しかし岸恵子は、汚れた雑巾と足袋が似合うような田舎者では、決してない。和服の着こなしも颯爽としていて、方言の使い方も柔らかく、色っぽい。

 

ベテラン俳優の味わい深い助演

岸という主演女優の脇には、多くのベテラン俳優たちが、味わい深い助演で作品を下支えしている。

加藤武は、強引で傲慢で権力を振りかざすが、事件の推理は間違ってばかりいる。古い父権的な男性像は、コミカルな味わいで絶妙に中和され、戦後すぐの世相を体現している。

大滝秀治は、村唯一の医師を演じるが、20年前の殺人事件の検死を彼が担当したことが事件解決の鍵となる。ぶっきらぼうでいい加減な人物造形はさすがの出来栄えだ。

中村伸郎は、村の元素封家で、20年前から現在においても事件に有機的にかかわっている老人を演じている。中村は小津安二郎作品などで、企業の重役や学者など、知的エリート役を多く演じてきた。都会のエスタブリッシュメントの官僚的な酷薄さを体現してきたわけだが、一転ここでは、村社会の鵺のような土着性を強く発露させている。

三木のり平は、昔活動弁士として鳴らした男を演じているが、彼の語り口には、日本の演芸黎明期からの歴史に造詣が深いことがうかがわれる。もちろん三木自身が日本のコメディアンの草分けなのだが、プレイヤーとしてだけではなく、演芸やエンタテイメントの在り方について一家言を持つ批評家としての資質を併せ持っていることが伺える。

無声映画の時代から、「トーキー」と呼ばれた音声付き映画への時代の転機が、この映画のサブ主題となっており、「新版大岡政談」、「モロッコ」という往年の名画が挿入されてもいる。

市川や三木は、少年時代に「トーキー」の出現を体験した世代であり、市川の作風、三木の芸風にもその当時の衝撃は、何らかの影響を与えているのだろう。

 

無色透明な金田一耕助

「悪魔の手毬唄」は横溝正史原作の推理小説である。横溝原作の金田一探偵シリーズは、市川監督の5作品を始め、多く映画化、テレビドラマ化されている。テレビでは、古谷一行、片岡鶴太郎、稲垣吾郎が演じている。

市川作品では、いづれも石坂浩二が演じているのだが、周到に考え抜かれた適役だと思われる。

このシリーズは、中年美人女優が殺人を犯すまでの情念と、その葛藤のなかでの艶やかさを描くのが主眼だ。40代のキャリア豊富な女優たちの年輪を経た美しさと包容力は映画の柱として、安定感を与える。しかし、女としての弱さも豊穣に持っているが故に、殺人を犯す。彼女たちは聡明で率直な人柄であるので、少しとらえどころのない金田一にも優しく接する。やがて金田一の頭脳明晰さに感服したりもするのだが、両者の間に恋愛感情など、深い感情の交感は産まれない。

金田一自身が作中で何度も公言していることだが、事件が起こりそうな端緒から金田一は現れているのだが、繰り返される殺人や犯人の自殺を食い止めることはできない。事件の真相をつきとめるのは、いつも事が起こってしまった後なのだ。

犯人は金田一の出現にあまり拘泥せず、殺人を繰り返しているわけで、「この男には見抜かれそうだ」とは思っていない。

そうした、頭がよく、好感度が高いのだが、どこか頼りない男を石坂浩二は自然体で演じている。石坂は、金田一シリーズ以降の市川作品では、「細雪(83)」「おはん(84)」に於いて、頼りない男の魅力をよりリアルに完成させている。

 

岸恵子の最高傑作

中村伸郎と石坂浩二は「亀の湯」の風呂で初めて出会う。湯の色は黄土色に近く、薄暗い風呂場には秘湯の鄙びた情緒と、霊的な幽玄さも漂っている。中村伸郎が入浴していることで、否が応でもいかがわしさは増すばかりだ。

日本は古来より温泉宿が多く、現代でも寛げる旅行先として、老若男女に人気が高い。露天風呂の解放感、秘湯の淫靡さ、そもそも入浴という全裸で行う行為からして、性的な要素との結びつきも強い。

成瀬巳喜男監督「浮雲(55)」、吉田喜重監督「秋津温泉(62)」は、腐れ縁の男女が織りなすウェットなメロドラマの傑作だが、その舞台として温泉宿のダルくセクシャルな濡れ具合がフィルムに塗りこめられている。

成瀬や吉田は、爛れた性愛のウェットな情感を作為するために温泉という場所を選び、そこにいる女優は二作とも岡田茉莉子だったわけだが、市川の資質は彼等とは対照的に、徹頭徹尾ドライだ。湿度や、匂いを感じさせる生々しさを市川は排除する。あくまでヴィジュアル。視覚的なスタイリッシュさがすべてなのだ。

自ずと女優は岡田茉莉子ではなく、岸恵子となる。

岸は当然美人ではあるが、女性的な情念を外部に露出することを、自らに禁じている。美は、素材としての女性の美しさにとどまらず、スタイリッシュに洗練されなければならない。映画女優は、圧倒的なヴィジュアルの屹立をフィルムに焼き付けることが仕事なのだ。

市川崑が、日本の寒村を素材としてクールに描写したように、岸恵子も温泉宿の女将が連続殺人を犯すさまをスタイリッシュに演じている。フィクションとしての映画の虚構性とその洗練を知り尽くした映画監督と女優のプロフェッショナルな仕事。岸恵子の最高傑作だろう。

 

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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