東洋と西洋
東洋と西洋。戦争と平和。秩序と混沌。体制と革新。右と左。大島渚は、対立する概念の相克を論じ続けた。後者に与する思想を饒舌に語るが、前者への洞察もないがしろにはしない。過剰に論理的であるからこそ、時には激情が露わになった。
「戦場のメリークリスマス」は、この大島的相克を寡黙に表現した最高傑作である。
1942年、ジャワ島の捕虜収容所。日本軍が英国人捕虜を支配するという特異な環境のもと、巻き起こる相克と友情。
日本とイギリスは、世界史上有数の高度な精神世界を築いた国家である。その伝統を背景に持つ日本軍大尉(坂本龍一)と英国軍少佐(デヴィッド・ボウイ)。抽象的論理と精神性を、戦争という状況下で純化させていた二人の青年は、同性愛的な深い精神の交流を持つ。
初期の大島は、こうした相克を描くとき、抽象的な言葉を饒舌に語らせる手法をとった。しかし、本作では、ヴィジュアル的な洗練を獲得することによって、寡黙に表現している。
世界的に著名なミュージシャン二人をキャスティングしたことは、大きな成功を収める結果となった。ボウイも坂本も、その華々しい音楽キャリアとは別に、俳優としての到達点をここで獲得したのだ。
坂本龍一のヴィジュアル
軍服を着て、メイクを施した坂本龍一は、エキセントリックな美しさを発散している。ビートたけしを始め、昭和的にもっさりとした部下たちとは、ルックスの洗練や先鋭さにあまりにも差がある。
もともと、坂本は知的選良としての性的オーラを豊穣に発散しており、倒錯したロックスター的な佇まいは、音楽家として世界的成功を収めたことに大いに寄与している。当時31歳。そのセクシャリティが頂点に達していた時期だが、大島はやりすぎな程この美しさを誇張した。そういう意味でこの映画は、坂本の魅力を堪能するアイドル映画だとも言える。
ボウイは当時36歳。いうまでもなく10年ほど前のボウイこそ、倒錯型バイセクシャルを戦略的にまとったロックスターの先駆けだったのだが、ここでは常識的な英国人を演じている。1942年の英国陸軍が体現する英国的伝統の価値観は、外ならぬボウイが1972年に打破したのだが。
若い頃倒錯してはいたが、現在はエスタブリッシュメントとなっている人物が、若年の倒錯者に恋慕するストーリーのほうがオーソドックスだが、大島はそうしなかった。純粋さを研ぎ澄ました日本軍人が、英国のエスタブリッシュに憧憬する。しかし彼等は性的錯乱者ではなく、自国の伝統を崇敬する教養ある人物なのである。
この選良同士のラブストーリーでは、格上の大スターであるボウイが引き立て役に回ることにより、坂本の異形が更に過剰に浮かび上がる結果を産んだ。
情緒までが論理的な音楽
坂本は、映画音楽も担当している。最近、坂本がこの映画のテーマ曲を作曲した過程を、ピアノを奏でながら語る動画を見た。極めて論理的に和音や構成を創造していくさまが垣間見えた。東京藝大を卒業している坂本は、クラシック的な音楽理論の素養の上でもエリートなのだが、その教養を下地に、極めて高次元なポピュラリティとラジカリズムの獲得にも成功している。
あまりにも美しいこのテーマ曲は、涙を誘うようなリリシズムに溢れている。万人の情感を揺さぶる強い情緒性を宿している。しかしこの情緒は、極めて論理的に構築されているのだ。
と同時に、坂本は逸脱の人でもある。自らが獲得した強固な論理を破壊する衝動こそ、彼の音楽の神髄なのかもしれない。1982年のアルバム「B-2ユニット」にその衝動がダイレクトに表現されている。論理と情緒。ここでも大島的テーマである、対立概念の相克がスリリングに展開されている。
こうして完成した情感溢れる名曲群は、外でもない坂本自身がエキセントリックな姿態を魅せつけるシーンの後景に配置されているのだ。
ビートたけしの土着性
ボウイと坂本の高踏的な精神の戯れを傍観する人物がビートたけしだ。たけしは坂本の部下であり、恐らくは当時の日本軍人の典型を体現している。農村の閉鎖的コミュニティで育ち、入隊後も陸軍の硬直的組織を下支えする人物として、一見粗野にも見えるが、実は狡猾に振舞う人物。日本の土着性が愚鈍な人物を量産していたのではないことを示唆している。
坂本の武士的な高踏を心から尊敬しているわけではなく、内心では些か辟易もしているが、決して表面には出さない。組織の秩序を維持することが、全体にも個人にも最適であることを理解しているのだ。
お笑い芸人としてのビートたけしが公序良俗を揶揄するのは、あくまでエンタテイメント上の振舞いであり、秩序と権力が不要だとは思っていない。映画監督としての北野武が、暴力と死への衝動を志向するのも、芸術表現としての必然性であり、社会の崩壊や革命を志向しているわけではない。
日本の土着と伝統が二千年以上も継続しているのは、決して偶然ではない。彼等は一見閉鎖的で変化を嫌うように見えるが、そうではない。余暇をもてあまし、衆道に耽ったりして生産行為を行わない武士が、グランドデザインを描く知的エリートとして、社会に必要なことを熟知している。その上で利用され、いわば利用してもいるのだ。知的エリートが精神的に脆弱であることも良く知っており、じっくりと彼等を見守り、助けてもきたのだ。たけし演じる軍曹の無言の視線には、坂本やボウイのようなエリートに対する軽侮と哀れみ、そして尊敬と愛情に溢れていて、滋味深い。
英国の偽善性
ボウイが想起する弟の挿話が、この映画に視点の奥深さを与えている。「戦場のメリークリスマス」は、全編のほとんどがジャワ島を舞台としていて、坂本やたけしのバックグランドである日本のシーンが描かれることはない。
例外は、ボウイの青年時代の挿話だ。英国の田園風景や中流家庭の生家、パブリックスクールでの学生時代などが、障碍者である弟との関係性を軸に映し出される。
弟は、背中にこぶを持つ障碍者で、身長も子供の背丈から伸びることがない。一方ボウイは、頭脳明晰で見目麗しい、いかにもエリート的な青年だ。ボウイが弟を敬愛していたかどうかは、良くわからない。少なくとも彼は、弟を差別することもしないし、特別扱いもしない。
弟は周囲の悪ガキや学校の同級生からのイジメに会う。しかしボウイは助けたりしない。自分もイジメられたり、殴られたりするのが怖いのではない。弟が憎いわけでもない。ただただ、自分も同質だと思われるのが嫌だったのだ。
ここで想起すると、ボウイも含めてこの映画の英国人捕虜たちは、囚われの身でありながらも、常に沈着冷静で、理知的な判断を下し、紳士的に振舞っている。対して、支配している日本人のほうが、苛立ちを隠せず、些細なことに激高する。
「紳士的」で振舞うことが、そんなに価値があるのか? 戦争という極限状況、異文化の真っ向からの衝突のなかで、そんなに落ち着いていられるのは自然なことなのか? そもそも歴史上最大の侵略者は英国ではなかったか?
ボウイは2016年の死後、英国ロック最高の表現者として崇敬されているが、彼の音楽には、英国のスノッブなダンディズムと、偽善を暴く露悪が必ず同居していた。
大島渚の集大成
大島渚の戦争映画はこれ一本だけである。国家主義と戦後民主主義の欺瞞を露悪的に暴き続けてきた60年代から一呼吸おいて、その原点である戦争を寡黙に描いたこの傑作は、坂本龍一の素晴らしい音楽とともに、映画史に華々しく刻まれている。
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