80年代が本格化した年
1980年代とは、どういう時代だったのか。80年代末に冷戦が終了したり、昭和天皇が崩御したのは偶然ではない。加速度的に進化した文明は、1989年をピークに緩やかな下降期に入ったのだ。1980年代こそ、人類文明の絶頂期だった。21世紀の人間は過去のインフラをたっぷり享受するだけで、もう変革や向上は望まない。しかし、この「下降」は非常に緩やかだし、上り詰めた地点はかなり高いので、人々はゆっくりと下降しながら、平和に生きていける。
1983年、日本では70年代的な停滞が一気に吹き去り、躁状態に突入した。当時の軽薄な空気は、フジテレビが一手に牽引していた。ビートたけしとタモリは、生来持っているニヒリスティックな影を強引に軽薄化して、マスを欺いた。松田聖子と小泉今日子は、処女性と性的ユルさを絶妙なバランスで両立させ、合法的な複製売春のビジネスモデルを高度に完成させた。
テレビ局やレコード会社が織りなす芸能界は絶頂期を迎えており、数多の女性タレントが童貞男子の性的欲求を渇望させていたが、角川春樹は器用なタレントとは一線を画した「映画女優」を世に出すことにこだわった。薬師丸ひろ子こそ、角川映画最高のスターだった。薬師丸ひろ子が映画女優として圧倒的に輝いていた短い時代に、たった一瞬、松田優作と邂逅した。夭折した松田の絶頂期も自ずと短かったわけだが、1983年という時代に即した軽薄な映画にて、二人の大スターが、永遠に色あせない光を放ったのが、「探偵物語」だ。
「探偵物語」を巡る人物
根岸吉太郎は、日活でロマンポルノの習作を数本演出した後、80年代に若手の俊英として評価を高めていた。「探偵物語」でも、男女の性愛に関する描写にロマンポルノのエッセンスが色濃くちりばまれている。
加藤和彦は1983年、大傑作アルバム「あの頃、マリーローランサン」をリリースした。元来洒脱なセンスに長けた加藤の音楽は、この映画のある種の「軽み」を絶妙に後援している。
松本隆と大瀧詠一は、「A Long Vacation」の成功の勢いそのままに、映画主題歌として世に残るウェットな名曲を産んだが、薬師丸の歌唱は、あまりにもフラット過ぎたため、恐らく彼等の意向とは違った曲に仕上がったはずだ。
北詰友樹と坂上味和は、当時の東京の私立大学の空気を体現している。彼等がいかにも普通の大学生に見えるので、同じ大学生である筈の薬師丸の異形性が際立ってくるところにこの映画の妙味がある。
ディスコで薬師丸をナンパする加藤善博は、森田芳光監督作品の常連だった。ヤサグれてトッぽいが、器の小さい男の怠惰を巧く演じた。
藤田進と財津一郎は、ヤクザの幹部を戯画的に演じることで、お嬢様女子大生がヤクザと接触する奇矯さをコミカル化することに成功している。この手法は相米慎二監督「セーラー服と機関銃(1981)」での薬師丸の立ち位置を援用したのだろう。
松田優作の過渡期
ワイルドなアクションスターとして登場した松田優作は、80年代の到来とともに文芸路線に転向する。そんななか、「探偵物語」は彼が市井の男の味わいも巧みに表現できることを立証する作品となった。
「探偵物語」の松田は文字通り探偵だが、特に切れ者というわけでもない。「遊戯シリーズ」やテレビドラマ「探偵物語」の松田は、少し抜けたところもあるものの、基本的には冷血な悪党で、仕事師だった筈だ。ところが本作では、なんと薬師丸に逆尾行されても気が付かないありさま。幾多の危機を乗り切るのは、どちらかというと薬師丸の機知や対応力の高さだったりする。
「遊戯シリーズ」の鳴海昌平は、インディペンデントの殺し屋だし、テレビドラマ「探偵物語」工藤俊作は、工藤探偵事務所を自身で構えている。一匹狼のアウトローなのだが、映画「探偵物語」の辻山秀一は、荒井注の経営する探偵事務所に雇われている勤め人なのだ。
ナイトクラブの歌手との離婚歴のある辻山=松田は、安アパートに一人暮らしの身だ。独立して事業を営むでもなく、大企業の一員としてステイタスを獲得するでもなく、ただ生活のために探偵の仕事をこなしている。若いころから真面目ではない暮らしを送っていたのだろうことは想像できるが、例えば財津一郎のような本物のヤクザと比較するとあまりにも弱々しく、気合が入っていない。
そんな、どこにでもいるような男が、ヤクザの殺人事件に巻き込まれる。ここまではいかにもありそうな話だが、そこに薬師丸というお嬢様女子大生が首を突っ込んでくる。お嬢様の世界と、大人の魑魅魍魎の世界は違うんだ、と説く松田だが、実は裏で少しずつつながっていることが明らかになる。むしろ松田こそが、どっちの世界にも属しきれない半端な存在なのだ。しかし、そんなうだつの上がらない松田に薬師丸は惚れてしまう。
映画女優としての薬師丸ひろ子
角川映画最大のスターとして絶大な人気を博した薬師丸だが、20歳のときに角川事務所を独立後、人気は急速に降下した。1991年に玉置浩二と結婚、芸能活動を縮小していたが、21世紀に入ってから「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズなどで復活。ベテラン女優としての評価が高まった。
そんな彼女の長いキャリアの仲で、圧倒的に輝いていたのが、角川時代である。相米慎二監督「セーラー服と機関銃(1981)」、根岸吉太郎監督「探偵物語(1983)」、森田芳光監督「メインテーマ(1984)」、澤井信一郎監督「Wの悲劇(1984)」。17歳から20歳までの4年間、1980年代初頭に頭角を現した俊英監督とのタッグで、映画史に残る作品を残したのだが、そのなかでも最も輝いているのが「探偵物語」だ。
眼を奪うほどの美貌を持つわけでもなく、グラマラスな肢体を誇るわけでもない彼女が、実生活でも大学に入学した時期に、そのまま普通の女子大生を演じて、圧倒的な魅力を発散しているのだ。
若い女性の主演映画の常套テーマである、「性への憧憬と怖れ、そして漸近。」がここでも踏襲されているのだが、薬師丸は、この普遍テーマを巧みに自家薬籠中の物とした。キーワードは「耳年増」だ。
『私はまだ処女。男の人に媚びるのも苦手だし、奥手なほうかも。特に彼氏もいないんだけど、サークルの先輩の永井さんにちょっと憧れている。でも、永井さんは女の娘にモテるので、私のことなんて気にしてないよね。
家政婦の長谷沼さんがパパと関係があったのはバレバレなんだけど、大人のドロドロした色恋って、なんか不潔に感じる。そんなとき、私の行動を監視する、辻山って探偵が現れた。この間永井さんにホテルに誘われたんだけど、この辻山って人に邪魔されちゃった。
だけど、なんとなくこの人のことが気になってしまう。この間、辻山さんが元奥さんとエッチしてる声を偶然聴いちゃったの。物凄く悔しくて。これって嫉妬? 自棄になって辻山さんと同い年のオジサンにナンパされてホテル行ったんだけど。』
アメリカへ向かう薬師丸が成田空港のエスカレータで下りかけた瞬間、松田の姿を見つける。エスカレータを逆走して松田のもとへ走り寄る薬師丸。身長差30cmの二人のキス。上から覆いかぶさるように薬師丸の唇を吸い上げる松田。薬師丸は釣り上げられる魚のように唇を吸い上げられる。唇を起点にして、薬師丸の小柄な肢体の全てが、ワイルドな松田に吸い寄せられる。不器用に引き寄せられる薬師丸の腰つき。
ヤサグレた中年の怠惰な孤独に、お嬢さまが惹かれてしまう、そんな小さな冒険。これが、「映画」だ。
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