自由意志で、地球を守っている
映画「電人ザボーガー」は、1974年~1975年に放送されたテレビ番組を映画化した作品だ。テレビ放送当時幼年期だった私は、「仮面ライダー」や「ゴレンジャー」などの戦隊ものが大好きで、戦闘アクションを真似して遊んだ。幼年男子にとって「正義」とは絶対的な概念であり、世の中で最もカッコいいものだった。そして、その世界観に惹かれるとともに、主人公の自由な境遇にも憧れた。
男は誰も、妻や子供を守る責任を負う立場になっていく。しかしその前に、独身の大人として、自由な境遇を謳歌できる時期がある。戦隊ものの主人公たちは、悪から地球を守る任務を、義務として遂行しているのではなく、大人の自由意志のもとに実行している。
しかし、本人の自由意志だからこそ、時にはその行為の正統性に疑いを抱くこともある。
葛藤のなか、一時任務から離れた主人公が、懊悩の末、もとの正義感を取り戻した後のすがすがしい活躍には、いつも以上に拍手喝采を送ったものだ。
正統な後継とパロディの葉境
「電人ザボーガー」の主人公である大門豊も、正義感あふれる熱血漢なのだが、映画「電人ザボーガー」は、二部構成をとっており、第一部で大門の青年期(22歳)、第二部で熟年期(47歳)を描いている。
第一部は、テレビ版の忠実な後継である。大門を演じる古原靖久は、長身の好青年であり、空手アクションを連発する肉体派だ。盟友であるロボット「ザボーガー」と共に、悪の組織Σと戦う。
しかし、第二部の大門を演じるのは、板尾創路である。どう見ても正義のヒーローには見えないうらぶれたオッサンは、糖尿病を患ってさえいる。そんな熟年が再びΣと戦う羽目になるのだが、もはやアクションにキレはない。
井口監督は私と同年齢であり、おそらくは幼年期に「電人ザボーガー」に憧れた一人なのだろう。しかし、その世界観をストレートに再現するだけでは飽き足らず、二部構成という形で、パロディとしても分厚いドラマを紡ぐことを目指している。
山崎真実の悩ましい股体
70年代、テレビは娯楽の王様の位置に君臨していたが、その作り手には、王者としての節度などなく、まだ挑戦者のアナーキーな魂が残存させていた。映画も性と暴力の表現に大きく傾いていた時代、テレビもエロをどんどん露出していた。
そんななか、子供向けの番組である戦隊ものにも、エロティックな要素は盛り込まれていた。正義を遂行する主人公は男子だが、脇を固める女子隊員はキュートでセクシーだったし、悪の組織の幹部は妖艶な熟女だったりした。
童貞の幼年男子は、ヒステリックに笑いながら主人公をいたぶる悪女のタイトなコスチュームを目にして、密かに欲情していたのだ。70年代のアナ―キックなクリエイターたちが、幼児の性の萌芽にまで目を向けていたのかと思うと、怖ろしい気もする。
本作でミスボーグを演じる山崎真実は、そんな悪の性的アイコンを完璧に体現している。グラビアアイドルとして活躍した彼女の豊満な肉体は、シルバーのコスチュームにタイトに包まれ、子供のみならず、成年男子も悶絶すること必至の妖艶さである。
彼女の魅力には、正義の熱血漢大門も抗えず、妙なきっかけから、ミスボーグと恋に落ちてしまう。血気盛んな二人は海辺の洞窟に向かい、モンスター染みた奇矯なセックスに耽ける。
映画序盤では、国会議事堂に颯爽と登場し、堅牢な警察の厳戒態勢を易々と突破する。大門やザボーガーとの闘いでは、悩ましい股体が溌剌と蠢く。男性への憎しみをインプットされて製作したサイボーグである故、その情緒はときに、不安定な激高を見せる。彼女を「お姉様」と呼ぶロボット三人娘「ミスラガーズ」とのエロティックな覇権争い。山崎真実が到達した悪女のエロティシズムは、この作品に悩ましくも永遠に刻印されている。
またしても、板尾創路
そして、第二部。それにしても気鋭の映画作家たちは、何故板尾創路を起用するのか。板尾がテレビに出始めたとき、私は他人事ながら気恥ずかしい気持ちになった。才気に溢れた芸人として輝いているダウンタウンに比べ、あまりにも彼はどんくさい。人前に出る仕事は向いてないんじゃないか。場違いなお店に入ってしまった時のようないたたまれなさを想起させたのだ。
映画出演時の板尾も、演技が巧いとは思えない。どの映画でもほぼ同じキャラクターで同じ喋り方だ。「電人ザボーガー」というヒーローものの主人公なのに、やっぱり喋り方も表情も同じじゃないか。
47歳の大門/板尾は、すっかりうらぶれて、汚いアパートに住んでいる。相手にしてくれるのは、やはりうらぶれた、元刑事のオッサンたちだけだ。そのかたわらに盟友ザボーガーはもういない。
そんなとき、Σの若き幹部である秋月と、Σの美少女サイボーグAKIKOが現れる。やがて二人は、大門とミスボーグの間に生まれた兄妹だということが判明する。
滑舌よく、はきはきとし立居振舞の秋月は、青年期の大門を彷彿とさせる。AKIKOは、心優しく、少し天然なところもある可愛らしい少女で、自意識にまみれた母とは全く異なる性格だ。
突然現れた息子と娘。しかも彼等のみならず、ザボーガーまでもが秋月の支配下にて、宿敵Σに属している。絶体絶命の四面楚歌状態の情けなさは、さすがに板尾によく似合う。
情けない男の闘い
こんな運命の悪戯をしかけたのは、Σの首領である柄本明だ。すっかり大御所の名優の位置に収まっている柄本だが、やはりこんな胡散臭い役はよく似合う。柄本は、当然世界の征服を目論んでおり、悪の組織力はいかにも強そうに見える。
それに対して、一旦は現役を退いていた大門/板尾が、息子や娘との再会を契機として、再度熱血を滾らせたとしても、到底勝てるとは思えない。ましてやこの映画には、米軍や自衛隊も活躍せず、人類共通の敵と戦う地球防衛軍も登場しない。
「シン・ゴジラ」のように自衛隊や政府の官僚組織の弊害と底力を描くようなリアリズムを「電人ザボーガー」は志向しない。主役はあくまで板尾創路ひとりであり、彼の双肩にかかった世界の平和は、親子の心の葛藤や、新たな関係性が構築される清々しさに収斂されていく。
若い秋月のほうが、体力的にも、運動神経的にも大門/板尾を明らかに上回っているのだが、板尾もなかなか負けてはいない。観客が、劣勢な板尾を応援する気持ちになっていると、この親子に、男同士のライバルとしてのフェアプレイ精神が芽生えたりもする。
その後の勝負の結末については、ここでは記さないが、第二部では、若さを失う淋しさと、それでも戦っていく男の勇敢さを、少し照れながら賞賛しているのだろう。
異才、井口昇監督
井口昇監督は、90年代後半よりサブカル色の強い作品を連打している、異色の映画作家だ。フィルモグラフィーを見ると本作のようなロボット戦隊もの、ホラー、漫画の映画化等のB級作品を多発している。アダルトビデオも多く制作しており、エロとアクションの70年代的世界を独自の解釈で咀嚼している作家だと思える。
2013年の「デッド寿司」は、そんな井口のナンセンス志向が炸裂したアクションである。寿司が人間を襲うというあまりにもくだらない設定だが、人食い寿司の攻撃力は、意外に恐ろしく、それに立ち向かう武田梨奈の70年代的なエロい魅力も存分に引き出されている佳作だった。
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