異才の軽やかな遺作
私が大島渚を知ったのは、「戦場のメリークリスマス(1983)」だった。この作品以降、大島は、映画を撮らない映画監督として「朝まで生テレビ」等のテレビ番組に出演していた。「朝生」の大島は、番組終盤に怒りを爆発させ、反体制/反権力の頑固さを披歴していた。「戦メリ」をテレビで観た後、旧作を何本かヴィデオで観たが、エキセントリック過ぎて、よくわからなかった。
そんな折、「御法度」が公開された。主演はビートたけし、音楽は坂本龍一、松田龍平のデビュー、と話題に事欠かない。私は初めて大島渚の新作を映画館で観るということに昂奮した。幕末、新撰組を舞台とした衆道の話というのも、大島らしい。きっと難解な映画なのだろう。
ところが、「御法度」は難しい映画ではなかった。台詞もストーリーもわかりやすく、軽妙だとも言える。何より、反体制/反権力の声高な主張がなかった。映画を通して提示し続け、「朝生」でも弁舌を振るった、大島の最大のテーマ「日本という国家への疑念」がすっぽり無くなっていたのである。ときは幕末、尊王と攘夷が激しく争っていた。新撰組はその渦中にいた。日本という国家が激動し、大きく転換しようとしていた時代。当然大島には、この時代の思想に対して、一家言あるはずだろう。
「御法度」はホモセクシャル映画だ。男同士の嫉妬と感情の機微が描かれている。それまでの大島の映画でも、「性」は重要なテーマではあった。しかしそれは、揺れ動く戦後社会の縮図を「性」に仮託した抽象的な表現だった。しかし、「御法度」は男色をめぐる軽妙なコメディーとして、素晴らしい出来栄えとなり、この作品が大島の遺作となった。
衆道を巡る疑心暗鬼
江戸時代、武士の間で「衆道」と称する男色が一般化し、男性同士の性交渉が普通のこととして受け入れられていた。そんな時代、新撰組に松田龍平が入隊してくる。映画公開当時、松田の実年齢は16歳。男らしく颯爽としたタイプではなく、まだあどけなさの残る、中性的な少年。喜怒哀楽を表さない無表情が、謎めいても見える。なるほど、男色家が好むのはこういうタイプなのか。しかし、剣の腕前は、局長の近藤勇(崔洋一)や副長の土方歳三(ビートたけし)が認めるほどのものだ。ほどなく、松田と同時に入隊した浅野忠信が懸想し、関係を持つ。その噂は隊内に広まる。妖しさを増してきた松田に想いを寄せる者が、多数現れる。
「御法度」は、佐幕と尊王の思想的対立や、欧米列強に立ち向かう日本の動揺を描くことはない。以前の大島の映画のように、抽象的な論理が饒舌に語られないのだ。新撰組の剣豪たちは、まだ子供のような少年の未成熟な色香に惑わされる。しかし、責任者である崔やたけしは、それほど大きな問題と思っているわけでもない。少し興味半分に事態を見ており、互いの「その気」を疑ってみたりして、この状況を楽しんでいたりもする。
衆道が珍しくない時代とは言え、「その気」をなかなか大っぴらにするものでもない。カミングアウトがなければ、互いに疑心暗鬼にもなる。後年でいうと「部落」「在日」がそんな疑心暗鬼を産んだが、これらは深刻な差別であり、面白半分にすべき問題ではない。当代では、「コロナ」とやらがその辺に該当するか。
脇役陣の大活躍
松田、浅野、崔、たけし。主要キャストの4人を中核に話が進むのかというと、そうでもない。
次に松田に恋焦がれるのは、田口トモロヲだ。田口は松田を飲みに誘い、想いを遂げるが、真剣そのもの。切羽詰まった恋心は、浅野への強いジェラシーを産む。浅野も、松田が浮気していないか、気が気でない。婉然たる松田の微笑に田口や浅野は苦悶するしかない。松田との逢瀬を重ねるほどに、田口の恋心が募る一方だが、そんななか、田口は夜討ちに会い殺害される。
風紀の乱れを糺すため、たけしは、トミーズ雅に命じて、松田に女の味を覚えさせようとする。遊郭へ連れていけというのだ。何度も断られた挙句、雅のなじみの店に同道するが、松田は未遂のまま逃げ出してしまう。その逐一を、雅は上長であるたけしに報告するのだが、無骨な雅にとって、微細な色香を放つ松田との交渉は、決して得意な仕事ではない。事が巧く運ばない報告を、たけしは愉快げに笑って聞く。この密談が醸す可笑しみは、お笑い芸人同士だからこそ生み出せる空気感だろう。更に、「その気」はない雅さえも、松田との仲を噂されるようになり、ついには雅も夜討ちに会うが、これは未遂に終わる。
流石に恋の相手ではないが、松田は、隊の重鎮の一人である坂上二郎と親しくなる。坂上は、崔やたけしと近い人脈にある存在だが、剣の腕もなく、権力欲もない、飄々とした老人だ。松田は、坂上と剣の稽古をする際、明らかに手を抜く。それほど腕前が違うのだが、自ずとその立ち会いは、緊張感に欠けたものとなる。それを偶然通りがかった的場浩司ら数人の侍に嘲笑われる。
武士の流儀では、剣の腕を馬鹿にされて黙っている訳にはいかない。坂上も松田もそれほど気が進むわけではないが、それが武士の世の中だ。夜更けに的場らを討ちにいく二人の姿は、血気盛んな武士の凄みなどなく、お爺さんと孫の散歩のような、珍道中だ。
坂上の出演映画の最高傑作は、「コント55号 世紀の大弱点(1968)」だ。ここでの坂上は、エキセントリックな萩本欽一に徹底的に振り回される。柔和でおっとりした性格は、キレキレの頭脳派からすると、まどろっこしくでしょうがないのだろう。「御法度」では、田口トモロヲもトミーズ雅も、特に頭が切れるタイプではなく、市井の普通の人物だ。彼等がまだ子供の松田龍平に翻弄されるさまは、この映画のコメディとしての側面を下支えし、その結果、物語としての豊穣さを獲得している。
ビートたけしの成熟
衆道騒動を収束すべく、田口や雅を襲った犯人と目される浅野を、松田に討たせるよう、崔がたけしに命じる。崔は、冷徹に組織を引き締めるリアリストであると同時に、ひねくれた悪意の強い人物でもあるのだろう。恋人同士の二人を、対決させて、一方が死ぬことで、この騒動に決着をつけようというのだ。たけしは、中堅のリーダ格である沖田総司(武田真治)とともに、この勝負の見届け役をも命じられる。組織のNo.2であるたけしは、こんな崔の悪意も含めた一連の騒動に、少し心を動かされながらも、冷静に監視している、いわば常識的な人物だ。
果たして、ビートたけし/北野武が常識的であったことが、かつてあっただろうか?
漫才ブームの波に乗って登場したツービートは、反社会的な毒舌で人気を博した。1980年代の軽佻浮薄な空気感を逆手にとったたけしは、テレビのバラエティー番組を、ナンセンスな下ネタやブラックなギャグで満載にした。
「その男、凶暴につき(1989)」で映画監督デビューした北野武は、1990年代を象徴するかのように、自らの虚無を全開にし、前衛的な映画を連打した。無口で不穏な空気を漂わせた、主演俳優のビートたけしは、突発の暴力で昭和的な予定調和を叩き潰し、日本のみならず、世界の映画のエッジに立った。
そのたけしが、決して善人ではないが、常識に即した人物を、滋味深く演じている。これは、たけし自身の成熟であるのだろうが、もしかして、俳優たけしをここまで使いこなせるのは、大島渚だけだったのかもしれない。
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