シネマ執事

板尾創路監督作品 「火花」レビュー ネタバレあり

 おそらく、女は、産まれたときから全てを知っている。それに引き換え、男はなーんにも知らないまま、いい年こいていく。男はどうしようもなくアホで、限りなく自由だ。

あらすじ


若手コンビ「スパークス」としてデビューするも、まったく芽が出ないお笑い芸人の徳永(菅田将暉)は、営業先の熱海の花火大会で先輩芸人・神谷(桐谷健太)と出会う。神谷は、「あほんだら」というコンビで常識の枠からはみ出た漫才を披露。それに魅了され、徳永は神谷に「弟子にしてください」と申し出る。神谷はそれを了承し、その代わり「俺の伝記を作ってほしい」と頼む。その日から徳永は、神谷との日々をノートに書き綴る。 2年後、徳永は、拠点を大阪から東京に移した神谷と再会する。二人は毎日のように呑みに出かけ、芸の議論を交わし、仕事はほぼないが才能を磨き合う充実した日々を送るように。そして、そんな二人を、神谷の同棲相手・真樹(木村文乃)は優しく見守っていた。しかい、いつしか二人の間にわずかな意識の違いが生まれ始める

https://filmarks.com/movies/72420

 男はその弱さ故に、傍若無人に世間をのし歩き、「よっしゃー」とか「マジかよ」とか言いながら、生命を浪費する。そして、そんな男どもが二人出会うと、ますます事態はくだらない様相を呈す。古今東西に山積する、「アホ男コンビ映画」の傑作がまたひとつ産まれたことを、少し失笑気味に祝いたい。

 桐谷健太と菅田将暉の存在感は、古今東西の山積に見劣りしない。ダスティンホフマンや水谷豊のアホさには、計算ずくの演技派ぶりが見え隠れするが、この二人は本当にアホに見える。ま、お笑い芸人の役だからかもしれないが。


 
 多くの「アホ男コンビ映画」は、年を取りすぎたアホの「アホからの卒業」を主題に据えて、ノスタルジックな泣かせどころを狙う。しかし、素晴らしいことに、桐谷は全く卒業しようとしない。

「天然」ではない桐谷は、「アホ」と「非アホ」の差異や、アホ延命の醜さに対する鋭敏な感性を自覚している筈である。その上で、安易に卒業して世間に埋没することを拒否し、伝統芸能の一端を担っていくことへの矜持を持ち続けたいのだろう。

 

監督 板尾創路

 これが3本目の監督作となる板尾創路は、定番フォーマットに乗りつつも、よくある陳腐な友情ものにはさせなかった。漫才が内包する複層的な奥深さ、潔いともいえるほどの芸能界の浅墓さ、卒業を巡って容赦なく訪れる残酷さを適確に描写し、普遍的な傑作を作りあげた。

 

 1作目の「板尾創路の脱獄王(10)」2作目の「月光ノ仮面(12)」とも、自らが主演し、その寡黙な存在感をフィーチャーした作品だったが、主演俳優・板尾創路と監督・板尾創路が少し分離できていない嫌いがあった。

そもそも俳優としての板尾は、アナーキーなカリスマ性を時折青白く光らせたりするものの、主演俳優として映画を背負うほどの存在感はなかったのかもしれない。2作品とも板尾を含む共作のオリジナル脚本であり、かなり荒唐無稽な筋書きを愉しませるビザール性は充分に魅力的だったが、傑作と呼ぶには躊躇せざるを得ない、マニアックなカルト作品だった。

「空気人形(09)」「電人ザボーガー(11)」のように、有能な監督の素材に徹すれば、素晴らしい存在感を出す俳優だが、自身の監督作に主演すると、どうしても小ぶりなマニアックに着地してしまう。

是枝裕和監督 「空気人形」2009

井口昇監督 「電人ザボーガー」2011

 本作は、板尾の後輩にあたる、芸人の又吉直樹が芥川賞を受賞した小説を原作としている。板尾のこれまでの作品が、自身の脳内小宇宙を具現化する試みだったのに対し、今回は他人の原作であり、250万部も売れた超ベストセラーである。

映画「火花」の観客の多くはすでに小説「火花」を読んでいる確率が高く、彼らは脳内に250万通りの「火花」のイメージを抱いた状態で映画を観るのだ。

 

原作について

 又吉の原作は、「ルパン三世」や「あしたのジョー」など70年代の劇画を彷彿とさせるような乾いたタッチで、無頼の男がすれ違う瞬間の葛藤を虚無的に描いていた。それに対して板尾は、暖かい描写をも取り混ぜ、コメディーの要素も大きく加えて、優れた映画のみが発散する独特の人懐っこさを獲得している。

この人懐っこさは板尾の脳内要素ではなく、主演二人の優しく、アホな存在感が活き活きと映画的に肉体化した成果だ。

 

青春=アホの終わりという時期

 特に、桐谷健太の素晴らしさには、賛辞を捧げたい。桐谷は1980年生まれと、奇しくも又吉と同年生まれで、本作公開時には既に37歳。決して若くはない年齢だが、近ごろの30代はまだ若者と言えなくもないし、この映画の主題の一つである、青春=アホの終わりという時期として、絶妙な年齢ともいえる。

 

 このほぼオッサンが舞台上でもないのに、日常、くだらないボケをかましつづける。さすがプロだけにセンスは光るし、タイミングも巧い。ただし、このセンスや巧さが一般受けしなさそうなところは、痛いほどわかる。

結局コイツは、ド素人を笑わせられないので、同じセンスをもった後輩とつるんで、じゃれているだけなんだな、と。桐谷と菅田が、同じセンスを確認しあう様子は文句なく楽しいが、だんだんと食傷気味にも感じられてくる。

 

 例えば、井の頭公園で、少し変わった太鼓をたたいている男とのやりとりが素晴らしい。「自分、それ表現やろ」と男に声をかけ、表現者としての同志の連帯感を押し売りする桐谷の可愛らしさとうっとおしさ。

 

 一方の菅田は、そこまでふざけた青年ではない。むしろ真摯に芸の熟達を目指している。相方とのネタ合わせも真剣だし、売れるためには、マニアックになりすぎないことが必要だと意識してもいる。しかし、一途なはずの彼も、売れている芸人に近づくことより、中途半端な先輩にシンパシーを持って、苦境を分かち合うことを選んでしまう。

 

 桐谷も菅田も、お笑い芸人を目指している段階ではなく、既にプロの漫才師であり、舞台に立っている。しかし、コンテストで優勝することはできないし、ましてやブレイクなどしない。桐谷は菅田より10歳程度年長で、「売れない芸人」としての立ち居振る舞いが堂に入っているし、発言もいちいち鋭い。しかし菅田もまた、売れることを半ば諦めたヤサグレのカッコよさを、少しづつ軽蔑し始める。


 夢を追うアホ男の自由気ままな爽快感、歴然とした才能の多寡が露わになる瞬間、卒業できない男の情けなさ。まさにこれは、ビートたけしが繰り返し用いるモチーフである。ビートたけしが出演しなかった北野武監督作品「キッズリターン(96)」が「アホ男コンビ映画」の傑作として、板尾の前に立ちはだかっていたはずである。

 

「火花」に曖昧な「逃げ」は存在しない

 ダウンタウンのテレビ番組などによく出演していたころの板尾は、まさに本作の桐谷のような存在だった。板尾の登場するコントはシュールなテイストのものが多く、笑いのセンスも難解だった。

しかし、ダウンタウンをはじめ、テレビの向こう側のタレント仲間やスタッフにはウケていて、視聴者は、「松本や浜田があれだけ笑っているのだから、板尾は面白いんだろう」と強制的に思わされたようなマニアックな存在であり、板尾の態度も決して視聴者に対してフレンドリーではなかった。芸人仲間の後輩からは、一目置かれた存在だったのであろうことも想像できる。板尾の監督作品1作目、2作目には、そんな玄人好みへの「逃げ」が残存していた。

 

 しかし、「火花」に曖昧な「逃げ」は存在しない。自らの本業である「お笑い」を主題に選び、又吉直樹が開陳したお笑い論をベースにしながら、自らの批評をも加え、活きのいい俳優を放し飼いにして、最終的には映画的肉体の輝きに賭ける。総合芸術を多層的に構築する、優れた映画作家がまた一人誕生したことを祝したい。

 

洗練極まった脳内小宇宙

 芸人出身の映画監督、或いは現存する日本の映画監督の最高峰であるともいえる北野武に挑んだのがこの作品だとすれば、板尾創路は、なれ合いの芸人巣窟から完全に卒業したのだろう。更に、衰え始めた北野を抜き去ろうとする覚悟すら抱いているのかもしれない。その刻印なのか、エンディングソングは桐谷、菅田の歌う「浅草キッド(作詞/作曲ビートたけし」だった。

 

 芥川賞、お笑い、北野武。全く言い訳のきかないこの3点セットに挑戦する監督は、もはやマニアックなカルト作家ではない。次回作では、更に王道に進むのか。しかし、洗練極まった脳内小宇宙をまた観てみたい気もする。

 

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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