シネマ執事

増村保造監督 「からっ風野郎」 1960 レビュー

三島由紀夫初の主演作

三島は当時35歳。数々の傑作を世に出し、既に文豪の域に達していた三島だが、実はまだ30代。テレビや雑誌など、様々なメディアに登場する、時代を代表する有名人でもあった。

三島は自身の監督作「憂国(66)」に主演している他、数本の映画に出演しているが、商業映画の本格的な主演は本作のみである。

監督は増村保造。三島とは東大法学部の同窓であった。

様々な文献を読むと、三島の演技は酷評されている。現場でも、増村に相当しごかれたらしい。カメオ出演ならまだしも、完全な素人が映画の主演を張ることは、当時でもほとんど例のないことで、文壇の寵児だった三島の人気にあやかった安易な企画であるとされて、評論的には黙殺された。

しかし、現在観返してみると、主演俳優三島由紀夫の魅力は、なかなかのものだ。若尾文子、船越英二、川崎敬三といった大映俳優陣が、三島を盛り立てる様子も微笑ましい。

登場人物が、それぞれ思うまま自分勝手にふるまう、増村ワールドはここでも健在だ。三島は任侠一家の気弱な二代目を演じ、増村ワールドにその個性をしっかりと刻み付けている。

 

度胸も力もないが…

勢力衰えつつある朝比奈組の二代目、三島が出所してくるところから、ストーリーは始まる。敵対する新興勢力である相良商事が、三島の命を狙っており、朝比奈組の叔父貴も相良商事の社長を殺すことを三島に示唆する。

新興勢力と没落任侠の対立。日本映画が幾度も繰り返してきたフォーマットだが、今回は主役が一味違う。本来なら、映画冒頭出所してくるのは、クールで度胸の据わったダーティーヒーローであり、双方の抗争に巻き込まれながらも、義理と人情を決して忘れていない男の中の男、鶴田浩二や高倉健でなければならない。

三島は決して、男の中の男というような男ではなく、おっちょこちょいで度胸の据わっていない、弱っちい男だ。黒い革ジャンをまとい、ボディビルで鍛えた筋肉を時折みせつけ、蓮っ葉な物言いもしているが、全然ドスが効いていない。

三島由紀夫がもともとは、青白く痩せ細った青年で、上流家庭に育ち、学習院から東大を出て大蔵省に奉職したインテリで、厳格な文体を志向する完璧主義者で、ゲイであることを私は知っている。

ギリシャ彫刻の半裸像や、神輿を担ぐ若衆のふんどし姿に性的興奮を覚え、剣道やボクシング、ボディビルで体を後天的に鍛え、自らの裸体を被写体とした、ナルシスティックな写真集を出版したことも知っている。誰がどう考えても、このキャスティングは無理があるのだ。

しかし、映画を観ていると、三島がこの役を演じていることのミスマッチさと、任侠の親分に向いていない弱い男が粋がって無理をしている滑稽さが、どこかで繋がってくる。

その佇まいに、得も言われぬ愛嬌がある。任侠に向いていないことを、船越に何度も諭され、本人も気づいてはいるのだが、つい、粋がった態度をとってしまう。そして、端々に、育ちのいいお坊ちゃんの優しさが見え隠れもしている。

鶴田浩二や高倉健には、絶対になれないが、言わば、「男はつらいよ」の渥美清のような、駄目な男の愛嬌を三島から引きだすことに、増村は成功している。

山田洋次監督「男はつらいよ」1969

若尾文子のシンプルな可憐さ

この一風変わった映画のヒロインは、いつもの増村映画のミューズ、若尾文子である。若尾は、朝比奈組の経営する映画館で働いている。三島に無理やり犯されるが、やがて三島に愛情を抱いていく。

いつも通り、若尾は、世の中の常識よりも、自分の信念を大事にする女だ。とはいっても、特に複雑なことを考えているわけではなく、いわば直感と情念に忠実なのだ。

そんな若尾が、三島に惚れていくさまが微笑ましい。任侠的な荒々しさや、孤独な男の淋しさなんてものに惚れているのでは、全くない。いわく「可愛い」のだ。血筋や境遇故に悪ぶってはいるが、本当は無理をして繕っているところも可愛いのだろうし、仄見える優しさにもキュンと来ているようだ。

兄の川崎敬三に交際を強く反対されるが、全く聞き耳を持たない。数々の増村とのコラボ作と同様、ここでも増村は、自身の恋情をシンプルに愛情に収斂させ、迷いなくその情愛を貫く女なのだ。

ここで、三島のキャラクターが重要となってくる。繰り返すが世間が酷評するほど、三島の俳優としての存在感は悪くない。頭は良くはないが、人懐っこくて性格は明るく、粋がっているが、あまり実力はなく、兄貴分的な男を頼りにして、いつもくっついている。どこにもこういった男はいるものだし、愛嬌があるから皆に好かれたりもしている。「どうも二代目のことはほっとけない」船越は何度もつぶやく。

ここまで書くと当然とも思えるが、こういう男は女にモテる。なにせ「ほっとけない」のだから。

 

安定の大映フォーマット

三島、若尾の脇を固めるのが、船越英二、川崎敬三、小野道子、根上淳、といった大映黄金期の個性派ぞろい。昭和30年代の大映は、日本映画史上絶頂期ともいえる最高傑作を輩出し続けたのだが、その傑作群にいくつも顔を出しているのが、彼ら大映専属の俳優たちである。

例えば、根上淳。インテリ男のロジカルで、ニヒルな魅力を備えた根上には、新興ヤクザの社長役がよく似合う。古き良き義理と人情を大事にする任侠ではなく、金と権力のためには、手段を選ばない男だ。しかし、うつむいた顔には、淋し気な影が漂う。着流しや革ジャンではなく、仕立てのよいスーツに手袋、オーセンティックなコートを羽織っている。

例えば、船越英二。ヤクザながら、大学出のインテリを演じている。三島の兄貴分といったスタンスで、子供のころから、何かと面倒をみている。常に落ちついて冷静な判断を下す頼りになる男、といった設定であはるが、組織や状況を大きく動かす力を備えたカリスマ性はない。

例えば、浜村純。「私は二歳(62)」でも医者の役だったが、ここではもぐりの医者。負傷した三島の手当てをするが、三島ではなく自分に麻薬を注射しながら治療したりする。裏社会にはこんな男がいるのだろうと、観客に想像させる、絶妙のリアリティ。善人の役が多いのだが、さすがに芸の幅が広い。

 

増村ワールド × 俳優三島

三島由紀夫の小説はいくつか映画化されているが、あまり成功していない。そのなかで市川崑監督「炎上(58)」が、唯一といっていい傑作である。

しかし、「からっ風野郎」に原作はなく、菊島隆三、安藤日出男のオリジナル脚本だ。三島主演の企画が上がって以来、脚本は何度も書き直された経緯があるようだが、三島の小説を原作としなかったことは、賢明だった。

三島もまた、増村が若尾文子に体現させた、ヨーロッパ的な人間性の世界に憧れていた。旧来のしきたりに忖度するのではなく、自分の意志において思うまま振舞う、ギリシャ的な人間像に憧れていた。しかし、この憧れが成就しないことの悲劇性が、三島文学の一つの軸であるならば、徹頭徹尾誇張してわがままな振舞いを描く増村ワールドとは相容れない。

小説家としての芸術性を全てかなぐり捨て、生身の人間そのものを増村という鬼才に預けた三島。増村は、ド素人の人間的な魅力を的確に見抜き、若尾文子との凡庸な恋愛を演じさせ、情けない男の人間味あふれる愛嬌を引きだした。

この作品が永久にフィルムの形で残っていくことを寿ぎたい。

 

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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