中平康にとっても、石原裕次郎にとっても、あまりにも鮮烈な先制攻撃だった。この後、彼らはこの攻撃力を超えることなく、早逝した。また、中年期以降にピークを迎えた石原慎太郎と津川雅彦の若き日の傲慢さや酷薄さも、瑞々しく刻印されている。
あらすじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9E%9C%E5%AE%9F_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
夏の逗子海岸で、大学生と高校生の兄弟二人が、ヨットやボートで遊んでいる。兄の夏久は、太陽族と呼ばれ、享楽的で不良っぽい。反して弟の春次は、かたくて純真なタイプで、女性にもうぶである。あるとき、二人は恵梨という美女と海で知り合う。春次は彼女に惹かれ、真剣な思いで次第につきあうようになる。ところが別の日に横浜のクラブで恵梨を見かけた兄の夏久は、彼女に夫がいたことを知る。春次との浮気を正当化する恵梨だが、夏久は弟に言わない代わりに自分と浮気するように迫り、強引に抱きしめ関係を持ってしまう。恵梨は春次に心はあるものの、夏久の魅力、肉体にも惹かれていく。あるとき夏久は、弟を出し抜いて恵梨をヨットで海に連れ出し、弟も夫も捨てて俺についてくるようにと迫る。恵梨を奪われたと知った春次は、二人が乗ったヨットをモーターボートで徹夜で探す。とうとう二人が一緒のところを見つけた春次は、ヨットの周囲を無言で何度も回り続ける。兄は、お前の勝ちだと言い、恵梨は、春次の名前を呼んで海に飛び込む。しかし春次はボートで恵梨をはね、ヨットに体当たりするのだった。
「狂った果実」は、石原慎太郎の小説を自らが脚色した、中平康の監督デビュー作である。石原裕次郎の初主演作であり、津川雅彦は16歳だった。
湘南のヤンチャな遊び人兄弟
石原慎太郎の小説「弟」やさまざまな逸話によると、芥川賞を受賞し、寵児となっていた慎太郎は、半ば恫喝するほどの強引さで日活と交渉し、裕次郎の主演を承諾させたらしい。しかし、23歳と21歳の兄弟は、映画会社の幹部を手玉にとっただけではない。作品世界としても、自分たちの野望を易々と成し遂げたのである。 湘南の遊び人兄弟は、金にも女にもルックスにも才能にも恵まれ、青春を享楽しながらも、戦後社会の卑屈な欺瞞が我慢ならないとも感じている。
裕次郎の魅力 それはさまざまな優越を生まれながらに持っている選良性
現在に至るまで、石原慎太郎の主たるモチーフは、男性的な決然主義と快楽の自己コントロールだが、裕次郎の魅力は、さまざまな優越を生まれながらに持っている選良性にあった。慎太郎は脚本の主題を選良性に絞り、中平監督は、それをシャープかつスタイリッシュに映像化した。
裕次郎は、慶應義塾大学を中退して日活と専属契約したのだが、高校、大学の慶應時代から、本物の遊び人だったらしい。湘南のみならず、銀座を飲み歩き、女はとっかえひっかえ、決して真面目ではない方々とも親交が厚かったようだ。そういう意味で、この映画はほぼドキュメンタリーだ。鎌倉、逗子、葉山の海岸でヨットやボートを乗りこなし、ナイトクラブを闊歩しては、余裕綽々にナンパする裕次郎とその取り巻きたち。遊び方のちょっとした身のこなしを、裕次郎本人が考証よろしく現場でアドバイスしていたなんて話もあるほどだ。
その取り巻きに時折くっついてくる裕次郎の弟が、まだ幼さの残る津川雅彦である。兄の影響でヨットやボートが好きな弟は、女には慣れていない。そこを誘惑するのが、人妻である北原三枝。裕次郎は弟の初心な恋愛を茶化しながらも、そのうち北原が欲しくなり、なんなく手に入れる。映画のラストでは津川が石原、北原を殺すという筋立て。
モノクロの魅力は消去法
しかし、中平にはそんな恋愛の葛藤など興味がない。映画からは、男女の微妙な心理など、一切伝わってこない。「狂った果実」の存在は、モノクロのシャープな映像だけだ。映像として見えているものが全てであり、恋のときめきだの、友情の尊さだの、家族の暖かさだの、といったウザいものは存在しない。
モノクロの魅力は、消去法にある。色彩が無く、白と黒の要素で構成されているため、カラーよりも輪郭がくっきり浮かび上がる。色彩の交わりのふくよかさがない分、ストイックな陰影が立体性を持つ。
果たして、ここは日本なのか?と当時の観客は思ったのではないか。モノクロに投射された海やクラブや街は、地中海の絵葉書のように乾いていて、生活感がなく、スタイリッシュである。そんなお洒落な湘南を闊歩する新人スタア、石原裕次郎の堂々たる男っぷり。
既存の価値観を完膚なきまでに叩き潰す男の生き様
当時、男の価値を軍人が象徴していた名残は残存していたはずだ。組織を厳しく統括する将校は、質実剛健を良しとし、浮薄な快楽におぼれたりはしない。裕次郎の登場は、その価値観を完膚なきまでに叩き潰したのだ。
「太陽族」という呼称のように、湘南の熱い太陽を浴びて、しなやかに遊び歩く。女は一瞬の性欲の対象でしかなく、愛情なぞ全くない。地道な労働は奴隷の行為であり、何の価値もない。傲慢な貴族は、颯爽と現れ、走り、気だるく煙草を吸い、女を口説く。
「太陽族」もどきは世に溢れたが、本物は裕次郎しかいないことを兄の慎太郎は熟知していた。映画館という現実逃避の場所で、一般大衆は価値の転覆を爽快に仮想体験し、日常でも少し模倣したりする。しかし、そんな「なんちゃって」や逆に「太陽族」を批判する世間は、石原兄弟の金づるでしかない。映画産業というある種のモンキービジネスでのし上がった二人の卓越したマーケティング力も、選良性ゆえの遊戯の一つに過ぎないのかもしれない。
仕事の辛さ、恋の悩み、家族関係の難しさ、血縁社会の土着性、儒教っぽい価値観と戦後民主主義を下手くそにミックスした偽善的な倫理。慎太郎はそんな倫理を打破したかったのだろう。しかし、裕次郎は、倫理など相手にすらしていない。そこで、倫理を打破する活劇を描くのではなく、打破されているのが当たり前の世界を筋立てにした。
「意味」を完全に排除した「見てくれ」だけの作品 ・・ゆえに
中平は、そもそも筋立てに興味がない。素早く視覚を刺激するカッティングの技巧と、白を基調とした白痴的に鮮やかな陰影。被写体としてこれ以上ない裕次郎のシャイな笑顔、活力に溢れた肢体、かすれた声。東京よりもスノビッシュな湘南の海と街。
昭和の名作として語り継がれ、名優石原裕次郎の初主演作として語り継がれている「狂った果実」は、「意味」を完全に排除した「見てくれ」だけの作品なのだ。「見てくれ」がカッコいい不良大学生と、映像派のはしりとも言える映画監督。このパンクな二人は、この作品で一機にスターダムにのし上がったのだが、その後、凡庸な意味性に蝕まれていったのである。
中平康は、一流監督にはなれなかった。「月曜日のユカ(64)」の加賀まりこ、「猟人日記(64)」の仲谷昇に性的モラルをもたない人物を演じさせ、佳作としたが、加賀や仲谷の性的逸脱には、「意味性」が伴ってしまっていた。
」の加賀まりこ、「猟人日記(64)」の仲谷昇に性的モラルをもたない人物を演じさせ、佳作としたが、加賀や仲谷の性的逸脱には、「意味性」が伴ってしまっていた。
石原裕次郎は、日本を代表する大スターになり、数々のヒット作を生んだが、メインストリームのど真ん中にいる存在が、パンクを続けるわけにもいかず、少し影があるが芯は誠実な強い男が苦境を乗り越えるさま、という男性主演俳優の王道を演じ続けた。
例外的に、田坂具隆監督の「陽の当たる坂道(58)」では、戦後民主主義的な個人主義を饒舌に礼賛する「意味性」の権化として、蔵原惟繕監督の「憎いあンちくしょう(62)」では、浅丘ルリ子との愛の「意味性」を問う真摯な青年として、既成価値への優しい反抗を見せた。これらは、裕次郎の優等生的な選良性という別の側面を現出させた傑作ではあったが。
対照的に、石原慎太郎はパンクであり続けている。国会議員、東京都知事を歴任し、福田内閣、竹下内閣への入閣まで経験した。1989年には自民党総裁選へ出馬しており、一時期は、有力な首相候補とも目されていた。権力中枢に近い位置まで上り詰めた。
政治的信条は右寄りであり、対中韓強硬派の筆頭である。都知事時代の尖閣諸島購入は記憶に新しいし、好戦的な発言も多い。憲法改正ではなく、現憲法を廃棄した上での自主憲法制定を論じ、核武装も主張している。
権力を倒した後は
セックスピストルズやクラッシュなど英国オリジナルパンクは、左翼的なスタンスであり、貧乏だった。しかし、先制攻撃による一転突破だけではなく、攻撃を持続するには、エスタブリッシュメントに近づく商才も必要だし、あっさり言えば、自らが権力になったほうがより有効だ。おそらく石原慎太郎は「反権力」という幼く、自慰的なスタンスを毛嫌いしている。権力を倒した後は、自らが権力になるしかない。
攻撃、破壊、勝利、支配。慎太郎の思想はここにしかない。闘う相手は、戦前的なモラル、戦後民主主義、日活の幹部、共産主義、田中角栄の金権政治、都庁の役人、中国、北朝鮮、天皇、LGBT、もしかしたら何でもいいのかもしれない。
パンクな政治家の闘いは、複雑すぎて映画にはならない。太陽、海、女をわが物にする美しい青年。これこそ映画監督が撮るべきものである。「太陽がいっぱい(60)」のアラン・ドロンに先駆けること4年、まさか日本映画がその金字塔を立てていたとは。
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