シネマ執事

増村保造監督 「卍」 1964 レビュー ネタバレあり

格差社会

 男は、格差社会に生きていない。もちろん人には優劣がある。頭の良さ、容姿、異性を惹きつける力、運動神経、収入。後天的な努力では逆転できない要素も多い。しかし男は、格差を露呈しない。格差は暗黙に了解され、持てる者は謙虚に振舞う。長幼の序は、格差をあからさまにしないための、知恵だ。しかし、女は違う。美しい女のセクシャリティは、この世の全ての価値に代えがたいほどの魅力を放つ。女の眼は格差を常に意識し、勝者と敗者は可視化される。

 「卍」の主演女優、若尾文子は当時31歳。匂い立つ美しさを披歴している。若尾は、岸田今日子を虜にする。妖しい同性愛が描かれるが、映画の主題は、同性愛ではない。彼女は、岸田の夫である船越英二、自身の婚約者である川津祐介までも篭絡し、人格を破壊する。

岸田は、若尾の美しさを絵画や風景に例える。性的な魅力とは関係なく、美は、誰の目にも美しく、女性が女性の美を愛でることに何の後ろめたさもない、と船越に弁明する。稚拙な言い訳だ。女の美は、狂気を孕んでいる。狂気が無邪気に発散されるとき、美貌はより輝きを増し、男も女も我を失う。谷崎潤一郎は、その恐ろしさをたおやかに表現した。増村保造と若尾文子は、その妖しくも他愛のない世界を、甘ったるく可視化した。

古き関西弁の魅力

 若尾文子、岸田今日子、船越英二、川津祐介。映画はほぼこの4人の人物のみにて描かれる。4人とも東京生まれだが、味のある関西弁を操る。彼等のことばは、現代の関西弁とは趣が違う。「ちっとも」と標準語で言うところを「ちょっとも」などと言う。現代の関西人は「ちっとも」とも「ちょっとも」とも言わず、「全然」と言うだろう。関西弁だけでなく、常に口語はダイナミックに変化する。昭和と令和では東京人のイントネーションも異なっている。

 現代の関西人にとっての神は、松本人志だ。エキセントリックに捻じれた松本の美意識は、他を圧する伝播力を持ってしまった。今や東京から発信される松本の言動が、関西人の立居振舞を支配している。特に松本が、古き関西の言葉使いを破壊したわけではないが、松本が使わない語彙は、誰も使わなくなった。

 昭和のとぼけた関西ことばは、愛欲の爛れの凄まじさを少し軽減している。船越英二が話すと、善良な勤め人の凡庸さを愛したくなるし、川津祐介の軽薄な如才なさは、安心して蔑むことができる。わけても岸田今日子の恋する乙女ぶりには、哄笑を誘われる。しかし、若尾文子の甘ったるい声が、関西のイントネーションを帯びたとき、事態は急変する。

若尾文子の怠惰力

 若尾文子は、いつも怠惰に甘ったるい。はきはきしているところなど見たことがない。「処刑の部屋(1956)」では、酒と睡眠薬で犯されたのに、惰性で川口浩に恋慕する。「あなたと私の合言葉 さようなら、今日は(1959)」では商業デザイナー役だが、全く颯爽となどしていない。「氾濫(1959)」では、あろうことか、川崎敬三に弄ばれる。「浮草(1959)」では、ままごとのような駆け落ちをするが、妙に落ち着いている。「からっ風野郎(1960)」では、三島由紀夫に犯されるが、やはり怠惰に恋慕する。川島雄三監督「しとやかな獣(1962)」あたりから、男を手玉に取り始めるが、どこかそんな自分自身をほったらかしにしているようなところがある。

 若尾は、常に男との関係性をベースに生きている。しかし、相手の男は胆力を備えた男ぶりではない。川口浩、川崎敬三、三島由紀夫。何故か優柔不断で頼りない男に惚れる。いや、若尾は惚れてなどいない。ただ怠惰に、たまたま近くにいる男にくっつくだけだ。その愛欲は、ウェットにねっとりと男に絡みつき、すこぶる蠱惑的なはずだが、あっさり男に飽きられたりもする。セクシャリティは、本能をベースにしているためか、狂気に追い込まれるほど苛まれても、一たび満たされれば、全くどうでもよくなったりもするのだろう。

「卍」以降の増村監督作品では、鬼気せまる女の情念を噴出させたと評価されているが、私はそうは思わない。まき散らされた自身のセクシャリティを怠惰に見つめて、微笑している女、それが若尾文子だ。

増村保造の作劇

 増村保造は、村の掟や会社の規範に従う人間を憎んだ。自分自身しか持ちえない感情を臆することなく曝け出し、自由に生きる人間を描き続けた。

「巨人と玩具(1958)」は製菓会社の広告マンの話だが、高松英郎や川口浩は、会社の論理で安住してなどいない。ブラックに働きまくる彼等は、ライバル会社との闘いに、自らの内なる熱情を燃やしているのだ。広告モデルの野添ひとみは、貧しく無知な少女だったが、自らのセクシャリティが資本主義にアダプトすることを知ると、高慢な女のプライドをひけらかし始める。

「華岡青洲の妻(1967)」の市川雷蔵は、麻酔薬の発明のために、母親(高峰秀子)や妻(若尾文子)の命まで犠牲にしようとする。雷蔵には、人の命を救うという医者の使命さえも、もはやどうでもよくなっている。若尾は、治験の危険度が高ければ高いほど、内なるセクシャリティを燃え盛らせる。もはや、雷蔵の愛情を勝ち取ることさえ忘れているかのように。

「御用牙 かみそり半蔵地獄責め(1973)」。江戸郊外の尼寺は、堕胎と売春で暴利を貪っている。女が女のセックスを食いものにする破廉恥だ。そこで北町奉行所同心の勝新太郎が、鋼鉄の硬度を誇る陰茎で女どもを成敗する。しかし尼どもは、成敗どころか、至福の恍惚に悶えるばかりだ。

 常識的な規範を忌み嫌う増村にとって、自らの女性性を愛し、その他のことに興味を持たない女を描くことが至福だったのだろう。ナルシシズムの極北において、凄まじく感情を爆発させたと思ったら、次の瞬間には気だるく欠伸をしている女。殿方が仕事や金や政治に奔走している姿など、バカバカしいとしか思えない。

美のデフレ

 現代の若い人から見れば、若尾文子は美人ではないのかもしれない。ふっくらとした頬と垂れ眼の容貌の狸顔。ぽっちゃりとした肉付き。「卍」から56年、若尾文子は存命だが、日本の女性は豹変した。大きくパッチリとした眼、細い顎、小さい顔。手足は細く長く、スレンダーなのに女らしいくびれ、胸も腰もふくよかに悩ましい。しかし、精神年齢はかなり幼い。彼女たちは、タイトなニットと短いスカートを穿いて、セクシャリティを存分に見せつけながら街を闊歩する。

 その中でも選ばれた娘がグラビアに登場し、半裸の水着姿で童貞を挑発する。AVという名のエロフィルムでは、嬉々として性行為を見せつけるだけではなく、男を犯したり、逆に輪姦されたりもしている。美しい女の破廉恥な痴態は、安価に入手でき、スマートフォンという個人視聴機で手軽に見ることができる。

 彼女たちは、本能的に自らのセクシャリティが圧倒的な価値を持つことを知り、金に換えている。その価格は、56年前に比べると驚くほど安くなっただろう。しかし、美とセクシャリティのデフレは、自分自身しか持ちえない感情を臆することなく曝け出し、自由に漂って生きることを容易にした。彼女たちは若尾文子の娘なのだ。

 セックスの切り売りは、魂の切り売りとなってしまう場合もあるのだろう。しかしそんなヤワな女はナルシスになる権利はない。性を売るも自由、売らないも自由。増村保造的作劇の理想社会は、いま、実現しているのだ。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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