【世界一くだらない傑作】
くだらない。完璧ににくだらない。シリアスで抽象的な映画を4本撮ったのは、このオチのためだったのか。ショートコントを連打する構成だが、シニカルに辛口のギャグとか、ほっこりとした笑いを誘うユーモアとか、都会的なウィットなど一切ない。ただただ低俗、完全なバカ。
ダンカンがVシネマを観ている。オープンカーの男がボディコンの女をナンパしてカーセックスしている。鑑賞後、早朝の鶏鳴にダンカンが決意宣言する。「オープンカーでカーセックスするぞ!」。意味はない。ヤリたい、それだけだ。
車を買ったダンカンは、早速ナンパを始める。後ろ姿のOLの腰つき、バス停に立つキュートな女子大生。当然ナンパは成功しないのだが、選球眼は素晴らしい。妄想に出てくるCAもかなりの美乳だ。
エロとお笑いの相性を知り尽くしたたけしは、映画序盤で早くも、モテない男の心を鷲掴みにする。街でいい女を見かけると、妻や彼女と比較してしまう。テレビに出ているタレントや女子アナ。顔や身体のエロい女はワンサカいる。しかし、女子アナとはセックスできない。女の内面などどうでもいいんだよ、とにかくヤリたい。でもヤレない。かくして、カーセックスのための愚行は、正当化される。
観客は、裏側も想像するだろう。OLや女子大生なんか、たけしだったらヤリ放題でしょ。つーか、監督と端役の女優じゃん。ダンカンでさえ、おこぼれに預かってるだろ。何が、「みんな~やってるか!」だ。
チープな日常描写
コントには、背景となる日常の描写が重要だ。カーナンパのパートは、空き地だらけの有明あたりを舞台に展開される。現在でもまだ、有明は寂しい。東京ビッグサイトやZeppTokyoができても尚、人の気配が希薄だ。90年代の有明は都市博中止が象徴するように、もっと空き地だらけだった。
そんな場所にOLや女子大生がいるわけない。単にロケしやすかっただけなのだろうが、微妙に近未来な非日常を、強引に日常だと言い張る大雑把なセンス。低予算とタイトなスケジュールで、速攻やっつけたのだろう。
銀行強盗のパートでは、安っぽい銀行のセットにドリフテイストが漂う。強盗の試行錯誤は「もしものコーナー」のオマージュか。課長と女事務員のチープな存在感と演技は、お約束をキッチリ踏襲しており、高度な抽象世界の桃源郷に観客をいざなう。
映画撮影所のパートでも、コントだけに存在する世界が展開される。たけしは、北野組の撮影現場を描くことはしない。ベースはあくまで、昭和のテレビで放送されてきた、コント上での撮影所だ。たけしは、そんな昭和コントも、北野組の創造の場としての撮影所の価値さえも、躊躇なく叩きつぶす。「映画ごときに真剣になってんじゃないよ、バカ野郎。」ということだ。
結城哲也、絶世の名演
結城哲也のパートだけは、マジだ。絶妙な可笑しみを発する、結城のキャラクターを、切れ味鋭く演出することに専念し、見事な成果を収めている。はまりまくった結城の突っ込みは、どこまでが北野脚本で、どこからが結城自身の素なのか。自身の出自ではない上方のお笑いのノリを巧みに演出した力量は、さすがとしかいいようがない。大勢の子分を従え、堂々とアホなヤクザの親分を演じる結城。この圧倒的な存在感の前では、ダンカンなどただの素人だ。
ヤクザ映画の膨大な蓄積から引用しているのだが、実はヤクザ映画の直接引用ではなく、ヤクザ映画を引用したコントからの引用だ。もっと正確にいうと、Vシネマは、逆にヤクザ映画コントを引用している。引用は何層にも引き継がれ、オリジナルのエッセンスはとうに失われている。「お約束」だけが、伝統芸として継承されているのだ。「お約束」は陳腐であればあるほど、魅力を発揮する。陳腐な「お約束」を馬鹿にすることが、最も安定感の高いエンタテイメントとして機能するからだ。
「お約束」は抽象化され、リアルでないほうが望ましい。雑なセリフ、雑な人物造形、雑なセット造形こそが、演劇の洗練の粋なのだ。本作では、例えば子分どものアホっぽさが、かなり雑に描かれているが、結城の完成されたアホさと絶妙な対称を描き、秀逸な演出として高い完成度を獲得している。
たけし助演によるクロージング
最終パートで、たけし自身がようやく登場する。全日本透明人間推進協会には、会長のたけしと助手の芦川誠しかいないのだが、この疑似漫才コンビが小気味よく躍動する。研究室のインチキな機器を精密なタイム感で誤操作する芦川。たけしの突っ込みは、あえて、切れ味ぬるめだ。透明人間になったダンカンを追って、女風呂、ラブホ、AV撮影現場をかきまわす。「エロ」と「撮影」という重点概念を小さく反復し、ラストスパートへの助走を加速する。
壮大な物語は、川崎球場で大団円を迎える。小林昭二率いる地球防衛軍が、ハエ男に変身したダンカンの迎撃作戦を敢行する。糞で球場におびき寄せて捕獲する作戦だ。東宝ゴジラ映画は、国家の危機に立ち向かう軍隊の献身を賛美したが、左右のスタンスを慎重に避けて来たたけしは、ここでは軽い揶揄に留めている。
「エロ」をベースに「ドリフ」「上方お笑い」「映画撮影所」「ヤクザ」「地球防衛軍」。エンタテイメントの定番要素を鏤めた、痛快娯楽作。「キタノブルー」に感動した外国人は、さぞかし驚いただろう。しかし我々日本人は、たけしが、くだらないお笑いを散々やっていたことを知っている。「笑ってポン!」「 OH!たけし」「学問ノススメ」あたり、80年代中期TBSの質感だ。基礎知識を持っている我々が参照の愉しみを味わうのは、この上ない贅沢なのだが、映画監督北野武しか知らない外国人にも本作を評価する声は多い。これは、お笑いの帝王、ビートたけしが4本の映画監督経験を活かし、満を持して得意分野を撮った、などというものではないからだ。
「みんな~やってるか!」は、演劇や芸能、映像表現の進化の系譜を黎明期からなぞって、その歴史の推移を表現している。しかし、その膨大なアーカイブをリスペクトなどせず、唾棄している。唾棄してみせたその瓦礫の上で、再度ダンカンが圧倒的チープさで系譜をなぞる。このレベルの低さは、無意味の極限だ。ダンカンの無表情なバカ面は、脱力した破壊力で全ての価値を無意味化する。その最果てに、ユルい虚無を完成させているが、「みんな~やってるか!」なのだ。
北野武の集大成はいかに?
「アウトレイジ(2010)」以降、王道のエンタテイメントに回帰し、久々に高い世評を得た北野武は、既に18本の監督作品を残している。そのフィルモグラフィーには、豊かな多様性に溢れた諸作が、燦然と輝いている。前衛から王道、暴力と含羞、寡黙なスピード感。北野の雑食気質は自ずと豊穣な多様性を残したが、どのアプローチからも抗いがたい虚無への憧憬が漏れ出している。虚無との戯れは、痛い程の先鋭性を帯び、その痛点は、世界映画史上最高峰の水準を超えた。
「その男、凶暴につき(1989)」で登場して既に31年。映画史上屈指の巨匠の31年間をリアルタイムに体感できたことは至上の喜びだが、73歳となった北野がこの後、何を撮るのか。逃さず目に焼き付けなければならない。
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