地下鉄の切符切り
地下鉄の切符切り。現代では、ほとんどなくなった職種だろう。カチカチカチとハサミの音を神経質に鳴らしながら、乗客の差し出す切符に小さな刻みを切る仕事。そんな駅員を演じる内田裕也は、終始不機嫌そうな表情だが、定期券をはっきり見せない客がいると威丈高に詰問する。本来は正規運賃の確認行為なのだろうが、内田の感情のなかでは、ハサミで切る必要のない定期券の存在が、切符より腹立たしいのかもしれない。
生産性の低い仕事に就き、安い給料であくせく働く中年男。1982年の日本はまだまだ貧しかったのだろうか。
先日、湘南新宿ラインのグリーン車に乗った。私は駅のホームにてPasmoでグリーン券を買って乗り込んだのだが、隣席にいた6人連れの客は、駅でグリーン券を購入していなかったらしく、車掌に声をかけた。「6人それぞればらばらの行先なんだけど、僕のSuicaでまとめて買えるよね。」「申し訳ありません。お支払いは現金のみになります。」「えー。本当に? JRさんSuica推しじゃないの?」
日本の生産性の向上はまだ道半ばといえるのかもしれないが、それにしても切符にハサミを入れる仕事というのは、生産性のかけらもない行為だ。セルジュゲンスブールがデビュー曲「Le Poinçonneur des Lilas(1958)」でパリの地下鉄の切符切りのことを歌っていたのを脚本の内田栄一は知っていたのだろう。
内田裕也のどす黒い存在感
内田は、妻子供二人と狭い平屋に暮らしているが、家族には全く興味がない。仕事中も自宅にいるときも、ブスっとした無表情で、ほとんど口もきかない。
若松孝二監督「餌食(1979)」、神代辰巳監督「嗚呼!おんなたち・猥歌(1981)」と主演作を重ねていた内田だが、この2作では、音楽プロデューサーや、ロック歌手の役を演じており、自身の境遇やキャラクターに近い設定での名演だった。
内田は、1950年代のロカビリー期にロック歌手としてデビューし、60年代~70年代には、フィクサー/仕掛人的な立ち位置でビートルズ、GS、ブルースロック等、英米ロックのトレンドを日本のロック界にアダプトすることに挑戦した。しかし、歌謡曲の芸能界体質や、フォーク/ニューミュージックの分かり易い抒情性の前に阻まれ、一般大衆レベルでの成功を収めることはできなかった。
この2作はこれら内田の試みの挫折を題材として選び、そこで内田は、あまりにも不器用な情熱と、エキセントリックに破天荒な振舞いを炸裂させたのである。
その後、「水のないプール(1982)」から内田の俳優としての本格的な深化が始まった。崔洋一監督「十階のモスキート(1983)では脚本を崔監督と共同執筆し、借金まみれの警察官を演じた。滝田洋二郎監督「コミック雑誌なんかいらない!」でも高木功と脚本を共同執筆し、突撃する芸能レポーター役を演じた。
地下鉄の駅員、警察官、芸能レポーター。ロックとはかけ離れた職業の男を演じても、「餌食(1979)」、「嗚呼!おんなたち・猥歌(1981)」でのキャラクター造形をベースとして、現代にアダプトできない男の焦燥や、燻り続ける性への渇望が外部へ露出する際の、ある種の小気味よさを狂的かつコミカルに体現し、唯一無二のロック俳優像を作り上げた。
連続強姦犯の妙な優しさ
物語の発端は3点だ。①公園でレイプされそうになっていたMIEを助け、彼女に優しい小父さんとして慕われるようになる。②喫茶店のウェイトレスである中村れい子が、暑い夏のなか、窓を開け放して寝ていることを小耳に挟む。③小学生の息子と昆虫採集に出かけ、彼がクロロホルムで器用に虫を眠らせているのを見る。
今思えば、1980年代初頭には、クーラーの付いている部屋はまだ少なかった。また、昨今ほどの猛暑はなく、夏は当然暑いが、朝夕は外の風にあたれば涼しかった。扇風機の風よりも、自然の風のほうが心地よく、よく眠れたものだ。
マスクを付けた強姦魔は、なんなく中村の部屋に忍び込む。眠っている女のしどけなさは、エロチックであるとともに、子供っぽく可愛らしくもある。眠らせたままの性交が、それほど満足感のあるものとは思えないが、一連のタスクを成し遂げることに、達成感があるのだろう。
内田の変質行為は、どんどんエスカレートしていく。記録を残すには、ポラロイドカメラだ。少し調べれば、窓を開けて寝ている女は、山ほどいる。彼女たちに妙な優しさを抱き始めた内田は、行為の後、洗濯をしたり、朝食を用意してあげたりするようにもなる。
若松孝二の闘い
若松孝二の生い立ちを読んでいると、そもそも映画やテレビを製作する仕事が、如何にヤクザな商売だったのかわかる。弱小プロダクションの底辺で下働きをしていた若松が、若松プロダクションを旗揚げした後、1960年代~1970年代に製作した映画は、いずれも性と暴力の表現をすることで、反体制的な政治スタンスを表明するものだった。
時代が左翼の風潮にどっぷりつかっていた時代、しかし当時も体制は自民党政権だった。セックスが極端に隠されていた時代、特に自民党が隠しているわけでもないのだが、旧態依然とした封建主義を仮想敵にすることが、わかりやすい前衛だったのだろう。
しかし本作以降、80年代~90年代、若松の作風は一変する。左翼と政治の時代は終わり、軽薄短小な時代にも、若松の映画的作家性は巧くアダプトしたのだ。
80年代から、女性が別にセックスを拒んでいない、という当たり前の事実が、当の若い女性たちから表明され始めた。旬の美人女優がこぞって映画でヌードになり、写真集を出版した。アダルトビデオもこの頃登場した。
「性の先鋭化」のような大げさなテーマをあっさりと捨て去り、若松孝二は、「水のないプール」にて、普通の女の貞操観念のゆるさをベースにして、時代の変化にアダプトできない中年男の悲哀、または情けなさを描いてみせた。このテーマに内田裕也ほどの適役はいなかっただろう。
1980年代の功罪
1980年代という時代は、日本全体が調子に乗っていたと思われる。間違いなく、テレビの全盛期はこの時代だ。歌番組、クイズ番組、ワイドショー、お笑い番組。人気番組は30%~40%もの視聴率を叩き出し、テレビは娯楽の頂点に君臨していた。人気歌手のヒット曲は、子供から老人までみんな知っていた。レコードを買っていたわけではなく、家族みんなで同じ歌番組を見ていたのだ。
ワイドショーでは、タレントの恋愛や不倫、結婚の噂などを、アポイントなしで突撃取材していた。芸能人の一挙手一投足に全国民が注目していたのだ。人気芸能人は、歌番組で歌い、コントもこなし、ドラマにも出る。ワイドショーや写真週刊誌に追いかけられたりするのも、いわば仕事のうちなのか。
こんな時代の最大の寵児は、ビートたけしだった。しかし、たけしは決して単なる能天気な芸人ではなく、ナイーブな内向性とどす黒いしたたかさを持つ策略家だった。
たけしほどのマジョリティを獲得することはなかったが、内田裕也も同様な策略で80年代にブレイクした。若松孝二も同様だろう。70年代的な暗い影をもつ中年たちが、一気に軽いフリをして国民を騙していたのが80年代だったのだ。
愛される裕也さん
中村れい子は、警察で、犯人をかばうような証言を繰り返す。クロロホルムで眠らされていたとしても、彼女は裕也さんの来るのを待ち焦がれるようになってきていたのだ。最後には彼女は目が覚めても、眠ったふりをしている。こんなことは、裕也さんだからとしかいいようがない。
内田裕也は、日本ロック界最大のフィクサーだが、ロックンローラーは、決して華々しい存在ではなく、みじめに情けない光を輝かせる存在であることを、この映画が証明している。
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