闇の消滅
21世紀の始まりごろ、闇は世界から消滅した。隅々の些細な事柄まですべて、インターネットによって可視化された。闇が消滅し、未知の事柄はなくなった。自分にとって既知でない事柄も、誰かにとっての既知であれば、容易に共有されるようになったのだ。
闇がまだ残存するころ、人々は、街灯の途絶えた暗闇の奥に潜んでいる邪悪な存在を怖れた。深夜の静寂に、遠く薄く、何ものかが蠢く音を聴いた。雑踏には、得体のしれない人物が歩いていた。家屋のなかでさえ、乏しい電球では部屋の隅々まで照らすことはできず、雑多な虫どもがひっそりと人間の殺戮を逃れていた。森の奥や川の底には、神々がしっとりと交歓していた。1960年代の都市の写真を見ると、その背後に闇の気配が感じ取れる。
「闇」の向こう側に何があるのか。怖ろしい。しかし、それを想像する行為には愉悦が伴う。可視化された世界の冷徹さに立ち向かうことのない人間は、怖いものみたさに、闇の向こう側を求めて放浪する。
「ねじ式」はその「闇」と「放浪」を描いた映画だ。
「女」という闇
女性にとって男性は、闇ではない。理解しがたいとは感じるだろうし、潜在的に持っている暴力は怖いかもしれない。しかし、得体のしれない定義不能な存在とは思っていないはずだ。女性は、男性を自らの感性で定義づけすることに疑問をもっていない。男性もまた、女性の子宮から産まれているからだ。自らの胎内から出てきた物体が、闇であるはずがない。むしろ女性にとっても、自らの子宮こそが闇なのだ。妊娠した女性は、少なからずその神秘に触れ、闇の神々しさを体感する。
「ねじ式」の浅野忠信は、様々な女性に出会い、戸惑う。内縁の妻である藤谷美紀は、市井の平凡な女だ。稼ぎの悪い浅野を叱咤し、支えようとはしているが、簡単に他の男に目移りし、乗り換える。自殺を企てるが、未遂に終わった浅野は、千葉の海岸沿いを放浪し、様々な女に出会う。入院した病院の美貌の看護婦。貧乏な両親に身売りされ、居酒屋で働くもセクハラされ続けている少女。客のほとんどいないストリップ小屋のヌードダンサー。海岸の街の小さな食堂の年増娘。金太郎飴を商う老婆。産婦人科の女医。
しかし、彼女たちとのセクシャルな体験はむしろ、子宮が象徴するような神秘性を女性が失いつつあることを示唆しているようにも感じられる。
定住と放浪
最近の日本は、保守性が強まっている。若い人が海外に行かない、酒を飲まない、安定した職業を望み、成功を欲していない。彼等が、低迷し続ける日本において、会社や地域などの固定的なコミュニティの論理に逆らわず、リスクをとらないことは正しい選択なのかも知れない。一方では、終身雇用制の崩壊とともに、自分の意志で仕事や人生を選び取っていく、自由人も増えているようにも思える。
しかし、他人の意志に従うこと、自分の意志を貫くこと、どちらも楽なことではない。そう感じたとき、人は、意志の世界から逃避し、放浪したくなる。ルーチンから逃れ、闇の向こうの知らない場所へ逃れる。そこには、見たこともない美しい風景や、気さくで親切な人々との交流があるかもしれない。汽車の窓外を眺めながら、抽象的な思索にふけるのもいい。旅先で迎える夜は、闇の濃度が深いはずだ。
「ねじ式」はそんな放浪の気安さや、やるせなさを暗い情感とともに描く。浅野忠信は、独り言を呟きながら、目的もなく闇の深部へ漂流していく。その闇の深さは映画的にノスタルジーを纏い、観客を闇も世界の愉悦へ誘う。
更に、浅野が以前関係した食堂の娘と再会するシーンでは、そのノスタルジーの虚偽性を自ら暴いてもいる。しかし、その暴露のせいで、放浪の闇は複層的に輪郭を曖昧にし、現実との往還を仄めかすことによって、闇が現実を侵食している恐怖と諦念を喚起させる。
放浪する男、浅野忠信
浅野忠信は、90年代初頭のデビュー以来、日本映画の先頭に立ち続けてきたベテラン俳優だ。40代中盤を迎え、男盛りの逞しさが力強くなってきたことが風貌に現れている。しかし浅野は、一貫して異端児であり続けている。フィルモグラフィーを見ると、その出演作の多くは、先鋭的な中堅~若手監督のオルタナティブな作品だ。
無口で、何を考えているかわかりにくい男。一見内向的だが、その内部には暴力的な攻撃性を秘めている。そんなタイプの男を多く演じてきたのだが、「ねじ式」の「ツベ」もその系譜に位置するだろう。
「ツベ」とは間違いなく原作者のつげ義春のことである。売れない漫画家の「つげ=ツベ=浅野」は、極貧生活のなかで闇を彷徨う。当時25歳の浅野は、未だ社会的に何も成し得ていない若い男の未熟さを自然に体現してみせている。20代中盤とはそんな年齢かもしれない。もはや少年といえる時期は過ぎ去った。仕事もしているし、女も知っている。しかし、社会のなかで自分がどういう位置を占めるのか、実感がわかないし、将来のことも考えない。少しずつ世の中のことがわかってはきたが、些かうんざりもする。自分の暮らすコミュニティーを外れた場所には、もっと魅惑的な愉悦があるような気がする。あるかないか確信はないが、気の向くままそんな闇の向こうを求めて旅に出た。
一言でいうとモラトリアムだろう。しかし、モラトリアムを容認することで、浅野のような若者は感性を磨き、コミュニティーに新しい視点をもたらすのかもしれない。反社会勢力の文化をも取り込んで、権力がより強靭化してきたように。
石井輝男が描く、エロスとアウトローの闇
石井輝男監督は、1957年に新東宝からデビューし、東映で長く活躍した。「ねじ式」は最晩年の作品である。「黄線地帯(1960)」では、港町神戸を勝手にデコレートし、細い階段の路地が迷路のように入り組んでいる歓楽街に仕立て上げた。「セクシー地帯(1961)」では銀座の街をスタイリッシュに描くも、ビルとビルの隙間に闇を垣間見せた。「網走番外地(1965)」の陰惨な監獄、「ポルノ時代劇 亡八武士道(1973)」での丹波哲郎の極悪非道ぶりは、人間の本性が持つ闇の怖ろしさを思い知らされる。
映画がエロスで人を発情させる方法は二通りある。一つは、男女の深い愛情を過剰にウェットに描く手法だ。近松の心中もののような悲恋物語がその典型だろう。美男美女のカップルが、紆余曲折を得ながら、深い相思相愛状態に陥いる。しかし、戦争や家柄の違いが彼等の仲を引き裂く。観客は愛の成就を応援しながら、密かに自己投影も行う。盲目的な愛は、性的技巧より淫靡なのだ。
もう一つは、女性を人間扱いせず、性的道具としていたぶることだ。「亡八武士道」は本当に非道い。なにしろ「孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥」を全て忘れた無法者の所業なのだ。あまりに酷いので、ここに記述するのは差し控える。
甘い愛情と、非人間的な扱い。昨今のAVでは、後者の比率が増えているが、感嘆すべきは、うら若き女優たちが平然とこの両傾向の作品に出続けていることだ。
石井の描くエロスは、明らかに後者だ。浅野忠信の尿の飛沫を浴びる藤森夕子。居酒屋の客に乳房をもまれ続けるつぐみ。男にちやほやされるのが大好きで、どうでもいい男でも弾みで4~5回セックスする藤谷美紀。
明らかに人間を大事にしていない、映画監督のアナーキーな作品だ。オープニングとエンディングに流れるアスベスト館の暗黒舞踏がそのことを物語っている。
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