カルトなヒロイン
強い雨が降りしきるなか、黒沢あすかが、乱れる。白黒ならぬ、「青白」とでも呼ぼうか。モノクロームのフィルムが青い陰影を形どる。無機質なデザイナーズマンションで自慰に耽る黒沢。残切りとでもいうか、無造作に切ったショートカット、スレンダーな肢体。塚本晋也のカルトな美意識の世界に、中性的な黒沢が棲息しているのだ。美しいトカゲ女は、77分に凝縮されたフィルムに、カルトなヒロインとして焼き付けられた。
中性的なルックスだが、声は甘ったるく女めいている黒沢は、自殺防止のための電話相談センターのオペレータだ。甘く優しい声で、心を病んだ人々を励まし、癒している。しかしこれは、危ない職業だとも言える。そんな甘やかな声で癒されたら、病んだ男は性的に依存してしまうかもしれない。不治の病に侵された苦しみを電話で吐露しているうちに、黒沢に依存していく男を塚本監督自身が演じる。黒沢の夫は、神足裕司が演じる。ワーカホリックに働くホワイトカラーのようだが、異常に潔癖な神経質な男だ。流し台やふろ場の排水溝の汚れが気になって仕方がなく、執拗に掃除している。
禿頭で背が低く小太りの神足と、クールビューティにスレンダーな黒沢が、似合いの夫婦には見えないが、無機質な都会に毎日雨が降りしきるなか、無機質なマンションのドライな空気のなかで、彼等はひっそりと暮らしている。
ドライとウェットのコントラスト
日本の梅雨は長い。夏に差し掛かる気温の高さのもと、毎日雨が路面を濡らす。河川や運河は嵩を増し、排水溝を汚水が勢いよく流れる。果物や野菜は腐敗し、寄生虫は熟した肉を食いちぎる。
しかし、コンクリートは完璧なファイアウォールだ。室内は完璧に除湿できる。びしょ濡れになった衣服や肌は、迅速に冷たく、乾かされる。神足はエアコンの冷えて乾いた空気を偏愛している。こんな空気は自然界には存在しない、人工の空間だ。土砂降りの戸外と、低温に乾燥した空間は、全く異質の世界として隔てられている。日本じゅうが梅雨で湿らされているとき、無数の小さい人工空間が浮遊しているのだ。
そんな人工空間で暮らす、いびつな夫婦。自慰行為中も、秘部以外は乾いてサラサラしている。昂奮で湧き出す汗も、人工風が瞬時に素肌を撫ぜて乾かしていく。汗のひいた肌は、濡れる前よりサラサラ感が増す。特に腋下だ。入念に処理された毛穴は、一瞬の潤いを吸収した後、すばやく除湿される。性器のジュースは、えげつない女らしさを待逃れ、中性的に変質する。爽快な炭酸水のように湧き出る愛液は、細い指に絡まり、性的感度も人工的な様相を帯びる。
引き算の美意識
当初、塚本はリスナーだった。受話器から漏れる黒沢の甘やかな声は、あまりにも優美で、淫靡だった。やはり、それほど女めいてはいない。口調もどこか少年の趣のある、中性的なたたずまいだ。神は男女を完璧なイチゼロに作り上げなかった。厳然と閾値を区分けしてはいるが、曖昧な境界線には、様々なヴァリエーションが存在し、生殖を目的としないセックスに、大いなる多様性の萌芽を撒いた。
降りしきる雨に濡れながら塚本が覗き見た黒沢の容貌は、更に中性的な先鋭性を宿していた。女性的な柔らかさがなく、肉を削ぎ落した黒沢の美貌は、英国ニューウェイブのキーボーディストのようでもあり、福岡のパンクロックバンドのギタリストのようでもある。もっと本質的に言えば、ジギースターダストだ。黒沢が鏡を覗き込む姿。ジギーのラストライブのドキュメンタリー映画にも同様のシーンがある。70年代英国の退廃は、同性愛という最大の禁忌をも打壊し、ファットなエロチシズムを開花させたが、デヴィッドボウイは、その地点から、巧みな引き算力によって、ポップとエッジを巧みに邂逅させてみせた。
70年代後半以降のパンク~ニューウェイブのミュージシャンは、全てボウイの影響下にある。より先鋭的に、より削ぎ落とす。日本人の資質にあったこの路線は、優れた女性ロッカーを輩出したが、その白眉がG-シュミットのSYOKOだろう。スージースーの影響を受けつつ、スレンダーな存在感で、更に引き算したSYOKO。私は彼女を1988年の新宿ロフトで観たことを鮮明に覚えている。
ショートカットで頬がこけ、中性的な妖しさを発光していたSYOKOは、「六月の蛇」の黒沢あすかによく似ている。
ウォッチャーの快楽
夫である神足も、電話相談者である塚本も、共に黒沢のウォッチャーだ。神足は、当然黒沢の肉体を獲得しているはずだ。しかし、乾燥した部屋に住む、潔癖でいびつな夫婦に、性行為の気配はほとんどない。神足は、黒沢の性器ではなく、排水溝なぞに執着している。
そうであるからこそ、黒沢の自慰は、満たされない欲望の代償行為ではなく、スタイリッシュな楽器演奏のようなヴィジュアルを呈している。「青白」にキャプチャーされた自慰の写真は、ニューウェイブバンドのレコードジャケットのようだ。細い腕が股間に伸び、両足はクロスするほどに閉じられている。そこに存在するのであろう、僅かな泉。ドライに引き算された股体のなかで、唯一性的な潤いが湧き出ている場所。黒沢の指は如何にその周辺で蠢いているのか? 塚本の性的欲求も、アートな変態の様相を帯びている。
夫を差し置いて覗き見し、撮影した塚本の満足度は高い。しかしこれだけでは満足しない。盗撮した写真を送り付け、黒沢の廉恥を増幅させる。受話器越しの甘やかな声は、恥ずかしさと悔恨に溢れ、性的魅力を増す。次に、写真の存在を糧に、街頭での破廉恥行為を命じる。超ミニスカート、ノーパン、性玩具を挿入したままでの行動。ここまで来ると、明らかに黒沢のほうが喜んでいる。さらに、そのウォッチ行為を神足に暴露する。神経質で小心な神足は、妻の破廉恥な行為に困惑しつつも、大きく昂奮し、嫉妬し、欲情する。その姿はもはや夫ではなく、完璧にウォッチャーだ。
行為者からウォッチャーへの転換
塚本晋也は、1960年生まれ、幼少期を原宿で過ごしている。当時の原宿は、未だ田園風景を残存させていたのかもしれないが、東京オリンピック前後、怒涛の勢いで都市化していく様相を目の当たりにしたのだろう。土や樹木や田園。自然の豊かな優しさが無機質なコンクリートに蹂躙されていく姿は、処女性の柔らかさが、機械的な鋼鉄に蹂躙されていく、ある種の強姦だったのか。強姦しているのは、逞しい男性の肉体ではなかったのだ。70年代後期以降、ヘビーメタルやパンクによって、ロックは、より金属的になった。アコースティックの柔らかさは後退し、ギターのスチール弦は、電気的に歪まされ、増幅した。
「鉄男(1989)」で登場した塚本晋也は、荒廃した都市の金属の軋みと、退廃する人間の精神を描いた。「TOKYO FIST(1995)」「バレット・バレエ(1999)」に自ら主演した塚本は、自らの脆弱な肉体を無機質に金属化することで強度を獲得することに異常な執念を示した。塚本にとって、コミュニケーションの主軸は闘争であり、邪悪な敵に勝利するために、肉体の鋼鉄化が必要だったのだ。
本木雅弘が主演した「双生児(1999)」あたりから、コミュニケーションの先鋭化の主題は男女の性愛に向けられ始める。塚本ではなく、本木雅弘が主演していることに象徴されているように、物語は、先天的にアドヴァンテージを得ている者の苦悩にシフトする。「六月の蛇」では、初めて女性を主演とし、塚本的なカルトな性愛の世界をウォッチャーとして、完成させている。
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