殺風景な湾岸の荒涼
東京湾岸。高層ビルや巨大な橋梁と朽ちた護岸や廃墟が混在する地帯。改めて地図で確認してみると、埋め立て地の面積はかなり広いのだが、全ての土地が有効利用されているとは言い難い。
役所広司演じる刑事は、湾岸地域を管轄する警察署に勤務する刑事だ。彼の自宅もこの地域の古い団地であり、連続殺人事件もこの空虚な水辺で発生する。
例えば比較してみるならば、戸越銀座のような商店街。私鉄の駅を中心に人々が集まり住み、日々の生活を営む街には、地域に根差した暮らしの悲喜こもごもが、土地に沁みこんでいる。小さい商店で商われる日用品の売買は、金銭の授受が行われる現場としての活気も生む。農村と違って他地域からの客を排除することもなく、緩やかなコミュニティの絆を深めるために、気楽な酒場も点在する。
フジテレビが描いた「湾岸署」では、そんな古い商店街のようなユルい人間関係のなかで警察官が働いているが、「叫」にそんな愉快さは、かけらもない。殺風景に天井の高い警察署では、特徴の薄い警察官たちが淡々と働いているだけだ。什器や、建付けも古めかしく、暗い。役所の自宅も天井に配管がむき出しになっているような、古く薄暗い部屋だ。
自然ではない海水
連続殺人事件の凶器は、「海水」だ。被害者は海水を含んだ水たまりや、海水を湛えた洗面器や、海水を浸したバスタブに顔を押し付けられ、溺死する。この界隈では、常に干上がらない水たまりが空き地に点在し、そこに淀む水は海水なのだ。犯人の一人である奥貫薫がポリ容器に海水を汲み取るシーンも印象的である。埋め立てによって陸地化しているようで、この土地はまだ海水の支配下にあることを感覚させられる。
例えば比較してみるならば、茅ケ崎の海岸にこんな陰惨さはない。広い海と水平線の雄大さは、爽快な気分をもたらし、汐風と直射日光は健康な性欲を誘う。
作業船の船員である加瀬亮は言う「作るでもなく、壊すでもなく。」雄大な自然の美しさも、人間の文明の活気もないこの地域に起こる連続殺人事件は、無機質な陰惨さを漂わせていく。
無機質な幽霊
捜査を進める役所のもとに、赤いワンピースを着た幽霊(葉月里緒奈)が現れる。幽霊なので、当然怖いのだが、普通の幽霊の怖さとは少し違っている。まず、彼女は特殊メイクをしていない。当時32歳の彼女は、極端に痩せていて、頬がこけている。骨ばった顔は幽霊染みてはいるが、彼女の美貌は、不健康さをまとうことで、更に凄みのある美しさを獲得しているともいえる。しかし、あまりに痩せていることもあり、30代の大人の女性には到底見えず、10代の少女のようだ。
葉月は役所に、自分を見棄てたことを詰問するのだが、役所には覚えがない。このあたりで私は感じたのだが、この幽霊はあまり怖くない。怖いのは霊魂の存在ではなくて、葉月の存在そのものだ。もしかしたら、生きている葉月に詰問されたほうが怖いかもしれない。この種の怖さは、エロティックな妄想を掻き立てられる。見知らぬ美しい女から、何かを詰問されて困惑するのも悪くないというわけだ。
ホラー映画とは、恐怖とエロスの混合を、そうではないふりをしながら提示する手管に神髄があると思うが、黒沢清は、無機質な湾岸を舞台に、無機質に美しい女を配置することで、忘れ難いほど素晴らしい無機質な情感を提示している。
村社会を忌み嫌う黒沢清
黒沢清が最も忌み嫌うのが、「湾岸署」の偽善的コミュニティーだろう。テンプレートのお約束をなぞって、親密さを再確認しあう仲間。この確認は、配役同士で交わされるだけでなく、押しつけがましく観客にも強要してくる。仲間内の符丁を交わし、空気を読みあう村社会。日本の村社会度合いは、昨今強まっているのかもしれない。
無機質な都会のなかでも、最も無機質に放置されている湾岸の埋め立て地。そこには暖かい心のふれあいもなければ、活気あふれる競争もない。壮大な自然はぶざまに破壊され、自然と人間社会の共存などという小賢しい理念もない。透明度の高い、無気質な虚無が清潔に保たれているのだ。このユートピアでは、誰も「踊って」などいない。
黒沢は、「カリスマ(1999)」では、森林を舞台に選び、大自然の地下に巣食う虚無の蠢きを描いた。「アカルイミライ(2003)」では東京の街を縦横に流れる地下水に「クラゲ」という虚無が繁殖する希望=アカルイミライを描いた。「散歩する侵略者(2017)」では、宇宙人が、地球人の村社会的「概念」を奪っていくさまを描いた。
黒沢は、漂白されていく過程の小気味よさを描くことで、有機への憎悪を表明してきたのだが、「叫」の湾岸では、既に漂白は完成されており、その荒涼たる光景が結果として横たわっている。そこでは、幽霊さえも無機的な存在と化しており、微弱な存在である。
「私は死んだ。だから、みんなも死んでください」と葉月は言うが、その「叫」はいかにも弱々しく、本来怨念が孕んでいるべきである、湿度の高い情念が薄い。
媒介役としての役所広司
黒沢映画において、役所広司はいつも、翻弄される刑事である。前述の「カリスマ」では森林をめぐる奇怪な企みに翻弄されていた。「CURE(1997)」では、謎の殺人教唆犯に惑わされている。
体制派のエリートではなく、単身で強引に捜査を進める一匹狼的な刑事。独善的な性格で、暴力も振るう。妻や子供との円満な家族生活を営めるタイプではなく、よれよれのコートを羽織ってほっつき歩いている。これは、典型的な70年代のアウトロー的探偵/刑事像であり、松田優作の正統な後継とである。しかし、使い古されたキャラクターであり、黒沢清の先鋭な感性とは真逆の存在であると。
そんな役所刑事は、遵法精神の低い、身勝手な捜査をいつも単身で進めているが、無機質な虚無のような化け物は、そんな「大人のガキ大将」のところへ寄ってきたがるのだろう。もしかして頼りがいがありそうにでも見えるのか? 自身と正反対な存在である有機的な人物に興味があるのか?
一般市民である観客は、古臭いアウトローと得体の知れない虚無の邂逅を疑似的に楽しむ。一匹狼刑事に実体験で会ったことはないが、テレビドラマではおなじみの存在なので親近感も強く、感情移入もしやすい。「未知との遭遇」にはこんな媒介がいることで、分かり易く会得できるものだ。この構図を最も巧みに利用したのが、往年のドリフ「志村、うしろうしろ」だろう。
葉月里緒奈の妖しい魅力
「叫」の前作「LOFT(2006)」では、安達祐実がミイラの積年の辛苦を演じ、強い哀れみを誘った。「散歩する侵略者(2017)」では、前田敦子が、あまり頭の良くない女が、簡単に宇宙人にやられていく様を演じた。「勝手にしやがれ!!」シリーズに毎回登場するゲスト女優も、少しビザールな魅力を放っていた。黒沢清は女優の未開拓な側面を引きだすのが巧い。
「叫」の葉月里緒奈はその筆頭格だ。この作品での彼女の存在感は、尋常ではない。修羅場をくぐり抜けてきた女の凄みが、彼女特有の植物的な繊細さを甘く際立たせ、壮絶なほどの美しさをスクリーンに刻んでいる。この存在感は、人間離れしてるといえるほどであり、恐らくは黒沢はこの美しさを映像化するために、この幽霊映画を作ったのではないかと思えるほどだ。
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