司法運営の是非
下打ち合わせ。根回し。一般の会社でもそうだ。会議でいきなり、ガチンコの議論はしない。そのほうが合意形成しやすいからだ。容疑者である役所広司は、幾度も証言を翻す。被害者の娘である広瀬すずは、裁判の方向性に合わない事実を告白する。しかし、弁護士(福山雅治)には、真実の希求など全く念頭にない。減刑を少しでも多く勝ち取ることだけを目指している。真実は、誰にもわからない。法廷で何を話すか、話さないか。いくつもの証言が合理的説得力を得るための策略をはりめぐらすだけだ。
役所が証言を翻し、犯行を否認する。裁判官も検事(市川実日子)も困惑する。裁判のスムーズな進行を妨げることに嫌悪感を示す。裁判は、当初の方針に従って判決を導かなければならない。殺人事件ともなれば、様々な人間の感情が交錯している筈だが、斟酌する必要はない。
令和2年の警察白書によると、犯罪検挙率は39.3%、凶悪犯罪に限ると90.1%。刑事裁判の有罪率は99.9%を超える。治安を守る官僚組織である警察、法秩序を守る官僚組織である検察。全体の治安や秩序を守るためには、ひとりひとりの心情に寄り添ってはいられない。着実に既成事実を決定するのが責務なのだろう。
役所広司と福山雅治の対峙
当初、役所は、福山の弁護方針に協力的だった。弁護士としての能力に自信を持つ福山は、弁護方針に沿って、常に最短コースを採ろうとする。被害者や加害者、親族への感情移入は、仕事の邪魔になるだけだ。役所は、そんな福山のスタンスを理解しているようにも見えたが、証言を二度も翻す。次第に役所の態度は、複雑に変化していく。自らの心の葛藤なのか、福山を翻弄したいのか。抽象と具体を織り交ぜて話す役所に、福山は心を揺さぶられていく。
役所は30年前にも殺人事件を起こし、刑に服している。「見て見ぬふりをして」「人の弱みにつけこんで」生きて来た、と言う。役所は、裁判の証言で1959年生まれであると述べるが、この世代は、欲得がストレートに露呈した「昭和」にどっぷり浸かった最後の世代なのだろう。
福山は1969年、昭和生まれだが、この世代は「平成」を体現している。平成の世に、人は、本当の想いを失い始めた。国や政府など信頼していないし、興味すらない。世の中を変えるなどと、青臭いことをいう奴は愚かだ。失敗を回避するためのコンセンサスが醸成され、みながそれをなぞる。自分の周囲のコミュニティーの規範である「空気」に従うことこそが、最重要事項なのだ。「空気」がすべての意思決定を司る、最強の権力となった。「空気」の支配のもとでは、人の感情に寄り添っていいのは、偽善がオーソライズされたときだけだ。そうでなければ、目の前の仕事を遂行することしか許されない。しかし、平成派福山のロジックは、役所の妖怪的な人格に翻弄されていく。老獪な58歳と挫折知らずの48歳の対決は、見ごたえある映画的昂奮を呼び起こす。
父と娘
役所は、30年以上娘と会っていない。福山は離婚調停中で、娘と別居している。広瀬は、父親にレイプされ続けた。かくも父娘関係はうまくいかないものなのか。現代は女尊男卑の社会である。森喜朗のように、女性を見下す発言は決して許されないが、男性をディスることは、むしろ奨励されている。特に、年配の男性は最も蔑まれており、大衆の欲求に従って、メディアは揶揄したり、非難したりする。昭和の社会では、成年男性のみが人間の代表とみなされ、女性や若輩は、一段下に見られてきた。終身雇用と年功序列の会社社会が、そのしくみを強固に支えてきたのだが、潮目は完全に変わっている。
性に目覚めた少女にとっては、男性性の希薄な男のほうが受け入れやすいのだろう。アニメやアイドルへの憧憬を選択するのは、自然なことかもしれない。彼女たちにとって父親は、最も遠ざけたい存在なのか。「一度死んでみた(2020)」の広瀬すずは、父親である堤真一を嫌っていたが、その細部は、男性への潔癖な嫌悪に満ちていた。「晩春(1949)」の原節子は、亡き母の代わりに父(笠智衆)の身の回りの世話をする生活に充実感を得ていたが、笠の再婚話が浮上すると、復活してきたように見える父の男性性を嫌悪する。これらの嫌悪感は、近親相姦への危機感が遠く影響しているのだろうか。母親が息子を暴力的に犯すことは考えにくいが、父が娘を犯すことは比較的容易なのかもしれない。
家族のありかた
是枝裕和は、家族の映画を撮ってきた。関係性をうまく作れない家族、意識のズレを感じる家族、離れ離れになる家族。「奇跡 (2011)」では、離婚した夫婦(オダギリジョー/大塚寧々)が兄弟をひとりずつひきとる。九州の真ん中でひととき邂逅する兄と弟は、むしろ父や母を励ましながら生きている。「そして父になる(2013)」では、産院で子供が取り違えられた事実が、6歳の時点で判明する。子どもをもとどおりに交換し直すべきか、このまま育てていくべきか、という葛藤を通して、一方の父(福山雅治)は精神的に大きく成長する。「歩いても歩いても(2008)」「海よりもまだ深く(2016)」では、挫折を抱えた中年男(阿部寛)が実家へ帰省し、母(樹木希林)との心の交歓のなかで幼き頃を振り返り、進むべく道の手がかりを少しだけ見出す。
人々は家族の関係性に苦慮しているが、ほんの少しの光明を、ちょっとしたきっかけで見つける。このきっかけをもとに、家族関係が良好になるとは限らない。現代の家族のありかたはかなり多様化されていて、王道というべき規範が失われているので、個々に成功パターンを築き上げていくしかない。しかし、人生を悲観しすぎてはいけない。すべてがうまくいくわけではないが、ちょっとした光明は貴重な救いとなる。是枝はこのことが言いたかったのだろう。
しかし、「三度目の殺人」で、事態は悪化している。役所広司も福山雅治も家族を復活する意欲すら持っていない。広瀬すずと母(斉藤由貴)の関係性に救いはない。斉藤は、食品偽装の露呈を怖れ、保険金の支払い遅延を気にしている。何より彼女は、夫と娘の近親相姦を黙認していたのだ。彼女が保険金目当てに殺人依頼を行っていたのか、映画は事実を特定しないが、いずれにしても斉藤が抱えている闇は深い。
八方塞がりの状況で、偶然、広瀬は役所に救いを求めたのだろう。広瀬は役所を救うことを決意し、福山にも救いを求める。しかし、広瀬が救われたようには見えない。彼女は常に怯えたような表情で、呟くようにしか話せない。果たして彼女は少しでもきっかけを見つけることができたのだろうか。
是枝裕和の誠実
映画には、役所の妻も娘も登場しない。福山の妻も、広瀬の父も登場しない。安易な回想シーンで、人物の感情を都合よく増幅していないのだ。登場することのない肉親たちにも、さまざまな思いがあるだろう。役所だけでなく、福山や広瀬にも表に出せない過ちがあるのかもしれない。しかし、映画はそのことを描かない。裁判と同じく、真実は闇の中に隠されているのだ。何が善で何が悪か。どんな言葉が誰にどう作用したのか。たった一つの真実などこの世に存在しないのだ。
是枝は、「三度目の殺人」で、これまで提示してきた家族復興への光明を、全否定した。それでも人間は生きなければならない。ラストシーン、福山雅治は十字路の真ん中でただ、困惑し、立ち尽くすだけだ。
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