シネマ執事

大森立嗣監督 「セトウツミ」 2016 レビュー ネタバレあり

贅沢な無為の時間

 世間には、忙しい人と暇な人がいる。忙しい人は「バタバタしている」とか、「今度落ち着いたらゆっくり飲もう」とか言う。仕事もプライベートも、ビッシリと予定を埋めてスケジュールをこなすことで、爽快な達成感を獲得したいのだろう。対して、暇な人は、基本的に何もしない。部活、旅行、英会話、ゴルフ。半ば脅迫気味に人に奨められることは多いが、「そのうちやってみようか」などと言って、結局やらない。

忙しく過ごすと、時間は全然足りなくなるのだろうが、暇に生きることを決めると、時間は途方もなく長い。しかし、無為の時間は、さまざまな思索をめぐらせ、濃密な洗練を獲得できる贅沢な時間ともいえる。

「セトウツミ」は男子高校生二人が、何もしないで、川辺でダベっているだけの映画だ。

池松壮亮と菅田将暉、絶妙のコンビ

 男子高校生二人を演じるのは、池松壮亮と菅田将暉だ。実力派として高く評価されている二人のコンビネーションが、絶妙に素晴らしい。

 まず、ルックスの対比。菅田は、髪を後ろに逆立て、表情も豊かに、目や口が外縁に方向している。学生服のボタンをはだけさせ、座っている足も全開だ。痩身で長身に見え、声も大きく、爽やかで少しやんちゃな、大阪の男子高校生といった趣。対して池松は、マッシュルームカットに、無表情。小柄で中肉中背。もっさりとしたしゃべり方で、皮肉ばかり言う。論理的思考力は高いらしく、難解な語彙を使う、斜に構えたタイプ。

 堺の、おそらくは府立高校の生徒であろう二人は、川辺の石段に座って、無為の時間をただ、くだらない話をして過ごす。しかし、彼等は大阪独特の文化を継承した、素晴らしい言語センスを持っている。彼等の話を聞いている者は誰もいないのだが、観客を意識しているかのような、絶妙のボケと突っ込み。漫才コンビかラジオの深夜放送のような、濃密なトーク。とり立てて才能があったりするわけでもなく、スポーツや音楽などの特技があるわけでもなく、女にもてまくっているわけでもない、平凡な高校生が、普通に高度な言語性を持っているのだ。日本語という言語の卓越した柔軟性を巧みに操れるのが、芸人やアナウンサーのようなトークのプロだけではないところに、日本文化の分厚い蓄積を感じる。

省略の言語としての日本語

 男子高校生でなくとも、中年の主婦は、ファミレスでおしゃべりに興じているし、サラリーマンは居酒屋で会社の愚痴をこぼしている。同性、同年代、同じ学校や職場の仲間との気の置けない話は、生産性は低いので無意味だととらえている人も多いが、同質のバックボーンを持った者同士のコミュニケーションは、お互いを確認したり探ったりすることを省略できるので、自ずと言語的に高度な洗練を獲得する。

 東京の人は、常に異質で多様な人とコミュニケーションをとる準備をしているため、お互いの共通認識を確認しあいながら会話する。育ってきた環境や生活水準、考え方や感性が違うことを前提にしているのだ。対して地方の人は、確認事項をどんどん省略する。同質であることを前提としているため、ビジターは強いアウェイ感を感じる。

 おそらく、異質な者とのコミュニケーションには、英語が最も適している。表現の解釈の幅が少ないため、意思が明確に伝わる。対して日本語は、曖昧な表現力を持った言語である。似た意味の単語がいくつも存在し、それぞれニュアンスが微妙に異なる。更には、英単語もカタカナ表現で日本語化し、人口に膾炙すると共に、オリジナルの英単語と違うニュアンスの意味をまとっていく。流行語は続々と産まれ、消えていくものもあれば、一般化するものもある。

 日本語の最も過激な特徴は、「省略」だ。前後の文脈で自明なことがらは、主語であろうが、目的語であろうが、どんどん省略する。「あれ」や「それ」などと言って明言を避ける。省略していても、お互いの共通認識が強固であればあるほど、意味は伝わる。たくさん省略すればするほど、共通認識の強固さが双方に強く認識され、親密度や信頼度が深まるのだ。

普通人の批評的洗練

 「セトウツミ」の池松と菅田は、説明をどんどんそぎ落としながら、省略の巧みさを競い合い、そのセンスを認め合っている。しかし、共通事項の多い二人にも、最低限の説明が必要な場合もある。この、説明しなければならないポイントこそ、彼等の見せ場なのだ。いかに最小限の語彙で状況やニュアンスを伝えるか。長い説明は、野暮極まりなく、彼等の美意識に反する。最小限に絞られた語彙は、充分にわかりやすい上に、意表を突くような意外性も要求される。意表を突かれた相方は、瞬時にその批評性を理解し、半ばうろたえたふりをしつつ、今度は若干俗に戻した語彙をチョイスし、最適なタイミングで、突っ込まなければならない。

 極めて高度な彼等の批評性は、本来なら観客をうならせるものだが、ここは堺の川辺だ。

観客はいないが、客いじりしたくなるような人物は登場する。菅田の両親や祖父だったり、怖い学校の先輩と別居しているその父親だったり。二人は彼等の凡庸さにうんざりしながらも、批評の寸鉄をかますことは忘れない。

 登場人物がほぼ肉親や学校関係であることから、二人の人間関係がごく狭い範囲に限られていることがわかる。自分たちが、そんな小さな世界に埋没していることをボヤくのが彼等のトークの基本線なのだ。大阪の分厚い伝統に育まれて、言語感覚に長けてはいるが、彼等は、まだ世の中のことを知らない子供なのだ。

恋愛は急がなきゃ

 そんな二人の最大のリアルは、同級生である中条あやみだ。中条は池松や菅田のように、同質のコミュニケーションに興じるタイプではなく、ごく自然に大人になろうとしている少女だ。中条は池松に好意を持ち、下校途中、頻りに話しかけるのだが、池松はほとんど相手にしない。中条ほどの美しい少女に好意を持たれて、嬉しくないはずはないのだが、照れているのか、勇気がないのか、それとも異質な性に対峙するのがただ面倒なのか。

 対して菅田は、中条にハッキリと好意を持っており、それを池松に率直に話したりもする。メールやLINEを彼女に送るのにも緊張して、文面の校正を池松に依頼したりしている。そんな状況のなか、中条は、男同士の親密さを常軌以上だと感じ、当然のごとく、自分の恋愛感情の障害であると感じているが、遮二無二その仲を引き裂いたりはしない。

 三人が三人とも、甘酸っぱく停滞した三角関係をかき乱すような一歩を踏み出すことはないのだ。内部では性欲がうずまいている筈だとは思うが、初心な恋愛が微笑ましい事態から次のステップに移らないまま、映画は終わる。

果たして、暇な人には、軽率に行動しないことがプログラムされているのだろうか。初めて知りつつある事態に、大いに懊悩しながらも、早く童貞や処女を捨てなければ、などと考え、様々な失敗を犯しつつ、経験値を高めていくのが若者ではないのか。

 クラスでもトップクラスの据え膳を食わない池松は、世間知らずのくせにカッコつけているだけなのだが、あと数年もすれば、自然と大人になり、優れた批評性を現実社会で活かしたりもするのだろうか。菅田は、池松との矮小な友情などかなぐり捨て、中条を奪うために猪突猛進すべきなのではないか。いづれにしても君たちの人生は、中条とセックスしなければ、何も始まらない。菅田は、「子供のころがいちばん楽しかった。大人になってもあの楽しさを超えられないような気がして怖い」などとほざいているが、アフター中条の風景にしか、楽しくも苛酷な人生は開けていない。

 と、諭しても、結局何もしない人は、世の中にはたくさん存在し、意外に説得力のある言い訳を言ったりするわけだが。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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