シネマ執事

増村保造監督 「セックスチェック 第二の性」 1968 感想

女性の証明

「セックスチェック」とは、スポーツの女子競技にエントリーするための、「女性証明」だ。いくつかのスポーツ競技は、男子競技と女子競技に分けて実施される。これは、男性のほうが運動能力が高いことが前提となっている。個人の記録が数値にて測定される陸上競技や水泳では、男性のほうが高い水準を示すのが周知の事実だ。

しかし、男女の性差が曖昧な人というのが、稀に存在する。「半陰陽」あるいは、「ふたなり」とも言われる。こうした人は、戸籍的に女性として生活しているケースが多いのだが、一般の女性よりも生物的に男性的要素を多く保有するため、一般の女性より優秀な成果を出す場合がある。男性、或いは完全に女性でない選手が、女性競技で優勝を収めるようなケースが実際にあったらしい。そのため、女子種目に出場するには、性器等の身体検査を行うことを、一部で義務付けていた時代があった。

性の多様化がコンセンサス化した現代では、「セックスチェック」は廃止され、むしろ性転換した性別での競技出場も認められる傾向にあるようだ。

「セックスチェック 第二の性」では、安田道代がメキシコオリンピックの短距離走を目指しているのだが、「セックスチェック」にて半陰陽と診断され、女性種目への出場の権利を失う。

異色のスポ根もの

奇抜な設定ではあるが、安田とコーチの緒形拳は、なりふり構わずオリンピックを目指して特訓を重ねている。1960年代当時、ドラマや劇画で流行した「スポ根」ものの一種ともいえる。

短距離のスプリンターとして活躍したものの、第二次大戦のためオリンピックへの出場が叶わなかった過去を持つ緒形は、酒と女に溺れて定職も持たず、ホステスのヒモに落ちぶれている。選手時代の同期で、企業の嘱託医となっている滝田裕介から、実業団陸上部のコーチの打診を受けるが、自堕落にヤサグレている緒形は、滝田の妻を強姦し、就任も一旦は断る。しかし、緒形の眼に適う才能を持つ安田を偶然発掘したところから、師弟の勝利を目指す特訓が始まる。

陸上部には安田以外の選手もいるのだが、緒形は彼女たちの存在を完全に無視する。自身が叶えられなかったオリンピックへの想いを安田のみに託しているのだ。向こうっ気の強い安田は、当初緒形の強引さに反発するが、やがて喧嘩腰の師弟愛が産まれ、遮二無二練習に励む。

増村保造的人物

緒形も安田も、典型的な「増村保造」的人物である。周囲との協調や秩序の維持を全く意に介せず、ひたすら自分の欲望のみを追求する人物だ。

若き日にイタリアに映画留学した増村は、激しく自己主張し、わがまま一杯に自分の欲求のみを貫くイタリア人の姿に感銘した。そして、日本的な情緒、協調性、空気を読む曖昧な態度を排除すべく、自身の映画創作をスタートした。小津安二郎や成瀬巳喜男が仮想敵だったのだろう。

家族の絆と軋轢の微妙さを丁寧に描く小津。意志薄弱で状況に押し流される男女の腐れ縁をグダグダと紡ぐ成瀬。ヨーロッパが高く評価した、日本的な映画作家とは正反対な作風を目指し、貫いたのだ。

例えば、「巨人と玩具(1958)」。家族や恋人など全く顧みず、ひたすら会社の利益の追求のみに奔走する宣伝マンは、協調や自省を全否定している。「華岡青洲の妻」では、江戸時代に麻酔薬の発明に没頭する医師と、麻酔の実験台になる母と妻を描き、目的のためには人命まで犠牲にする壮絶さを描いた。

緒形と安田も、陸上部の同僚や、会社の専務、嘱託医の滝田やその妻の小川真由美のことなど、ほとんど人間扱いしていない。緒形は小川を強姦したことを、ほんの一瞬は反省し、滝田に謝罪するのだが、反省していた時間は多寡だか30秒ぐらいだ。専務を金づると見定めると、次々と特別待遇を認めさせ、金が入ると、寄生していたホステスなどすぐに棄ててしまう。滝田と不和となった小川が、実は緒形の強引な性力に惹かれていて、言い寄ってくるのだが、全く相手にせず、冷淡に足蹴にする。

緒形の目的は金ではない。女でもない。せしめた金で遊び歩くのではなく、ひたすら安田の才能を磨くことに昼夜没頭する。そんなとき、滝田のセックスチェックの診断がくだされる。

性の多様性

昨今では、LGBTでさえ差別らしい。性の多様性は男女以外に4種類しかない筈がないというわけだ。性的嗜好でいえば、幼児を好む人もいれば、死体を好む人もいる。さまざまな動物、植物も性の対象になりうる。人工的な性具以外受け付けない嗜好もあれば、二次元も、実写やアニメ、さまざまだ。

生殖のためだけに性交する動物と違って、微細な性的差異を精神的に増幅することで、人間は文化を創出してきた。文学も音楽も、性の多様性と、多様性に対する批評を重要な要素として内在している。

当然、映画もそうだろう。

増村は、「卍(1964)」でレズビアンを描き、「盲獣(1969)」で盲目者の触感への異常な傾倒を露呈し、「やくざ絶唱(1970)」では兄妹の近親相姦的情愛をテーマに据えた。極端に露悪的な設定を用いることで、増村的人物の非協調性と、独自の意志の貫徹をデフォルメさせたのだ。

本作での緒形もあくまで意志を貫徹する。安田の診断結果に、緒形はそれほど落胆しない。最適なソリューションは自明だからだ。

性行為によって女にすればいい

ジゴロの緒形にとって、これほど容易な解決策はない。早速緒形は、日夜安田を愛玩し始める。巧みな技巧によって、安田の未発達な女性器は開発され、女らしさに満ち溢れてくる。曖昧な性が、強い意志の力で、明確化する。これこそ増村的なサクセスストーリーだ。

半陰陽のままでいたければ、そのままでも構わない。その希少価値は、昨今でもAVの題材となっている。しかし、「半陰陽」という短距離走の種目はない。万が一そんなものができたとしても、競技人口は非常に少なく、安田なら、寝ぼけて走っても、楽々金メダルだ。当然、そんなものに価値はない。ならば、滝田の診断を覆させるほど、完璧に女性の形状にしなければならない。これも、勝利への闘いなのだ。

敗北までも、哀愁ただようスポ根風

かくて、緒形と安田は勝利する。再度の診断にて、滝田は明らかな変化と定義の明確化を認め、「女性認定」する。

しかし、明確に女性となった安田には、緒形を愛する女のサガが刻み込まれ、以前の向こうっ気を失ってしまう。しどけなく女っぷりの上がった安田に、スプリンターの魂の爆発力は、もうない。オリンピックどころか、平凡なタイムしか出せない選手に成り下がってしまう。

落胆する姿も、どことなく可憐な安田。緒形は潔く敗北を認め、安田を抱き寄せる。寂しげに競技場を去る二人だが、仲睦まじい夫婦の情緒さえ芽生え始めている。

ここで想起されるのは、星一徹と飛雄馬親子だ。鬼コーチと息子は、ひたすら巨人の星を目指し、その手に掴みかけるが、やがて敗北する。満身創痍の息子を抱きかかえて、スタジアムを去る父。目的達成へ異常な執念を燃やした父子の悲壮な去り際。

しかし、星父子も、緒形/安田も、このままでは終わりそうにはない。挑戦を貫徹しきった疲労感と諦念を漂わせてはいるが、あの彼等がこのまま引き下がる筈はない。これは、あくまで一時的な撤退にすぎないのではないか。来るべき壮絶なリベンジを予感させる、名ラストシーンだ。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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