世界初の「謝罪」をテーマにした映画
失言、失敗、失態。やらかしてしまったとき、自身と相手の感情、周囲の空気は複雑に絡み合う。こんがらがった事態を収拾させるには、知恵と体力が必要となる。「謝罪の王様」は、世界初の「謝罪」をテーマにした映画として、「謝罪」する人、「謝罪」される人の機微を巧みに描き出す。
「東京謝罪センター」所長の阿部サダヲは、謝罪支援を生業としている。この映画で、阿部は5つの謝罪支援を依頼される。①交通事故の謝罪、②セクハラの謝罪、③息子の傷害事件の謝罪、④娘への暴力の謝罪、⑤外国皇太子侮辱の謝罪。ラーメン屋の粗相は、阿部自身が謝罪される対象だ。6つの謝罪は、コメディタッチで描かれているため、深刻さはあまり感じられないが、どれも当事者の立場になってみると、やっかいな問題だ。
仕事の依頼を受ける阿部は、謝罪のテクニックを伝授する。相手の怒りをやわらげるためには、感情を察する洞察力と機転が必要なのだ。
旬な女優のキュートなコメディエンヌぶり
井上真央は、ヤクザとの間で交通事故を起こしてしまい、風俗へ売り飛ばされるところ、阿部の活躍で窮地を逃れ、阿部の助手となる。以来、阿部と井上のコンビで仕事をこなしていくのだが、彼女はそれほど活躍するわけではない、そもそも失敗をあまり反省していないし、ヤクザや風俗の世界の怖ろしさも認識していない。
彼女は、阿部の謝罪の巧みさに驚くモデレータなのだが、一本ネジが外れている性格は、阿部に突っ込まれるボケ役でもある。映画に華を添えるキュートなコメディエンヌだが、なぜか、妙に暗い影もまとわりついている。その不穏さもセクシーで、忘れ難い。
尾野真千子は、飲み会で岡田将生にセクハラされるOLだ。岡田は、女性を性欲の対象としかみていない男を巧みに演じているが、尾野も、どこにでもいる普通のOLを絶妙に体現している。
セクハラされて怒るのは当然だ。しかも、阿部の支援もむなしく、岡田の謝罪には誠意が全く感じられない。それでも阿部の狡猾な策略にハマり、岡田を許す気になった尾野は、岡田をお茶に誘ったりする。頑なに怒っていた女がいとも簡単にユルくなる瞬間。自分を解放せず、真面目に生きている女は、結局、岡田のようなアホに、簡単に騙されたりするのだ。
松雪泰子は、ベテラン女優を貫禄と色香たっぷりに演じる。息子の傷害事件の謝罪会見を別れた夫(高橋克実)とともに行うが、自意識が強すぎる俳優夫婦の会見は無残な失敗に終わる。すぐさま釈明の会見、そのまた釈明、と失態を続け、芸能マスコミとの慣れ合いは終わりがない。
女優とは、自意識過剰の典型であるはずだが、松雪は井上や尾野以上に、天真爛漫でもある。自らの美貌や、煌びやかな世界のふわふわした楽しさに対して、全く疑いを持っていない。かといって、実は高慢でもない。被害者に謝罪する態度には、演技ではない反省や気遣いが現れていて、可愛らしくもあったりする。
謝罪が内在する、偽善の空気
仕事で失敗したとき、直接の当事者だけに謝りたい、と思う。当事者は、失敗に至った経緯を知っている。謝罪すべき点とその深度を互いに理解し、事態を収拾していく共同作業者でもあるのだ。
やっかいなのは、周囲だ。彼等は、容赦なく批判する。嘲笑うかのように揶揄する。話を悪いほうに脚色して、拡散する。このパンデミックに対処するのは、かなりキツイ。松雪夫妻のような芸能人でなくても、世間をお騒がせしたことをお詫びして、好感度の回復をじっくり待たなければいけないのだ。
本当に怒っている当事者への謝罪に、あまり策は必要ない。感情的になっている相手には、こっちも感情的になればいいのだ。自らの愚かさを悔恨し、相手を傷つけた罪深さを自らなじっていれば、やがて怒りは収まるし、尾野のように優しい人は、こちらを気遣ってくれたりもする。
しかし、人と人は、直接怒りをぶつけあうことが少なくなっている。自分の怒りを怒っていない。怒りの感情を露呈することは、大人げないこととされているのだ。怒っていいのは、自分以外、弱者や、コミュニティの秩序を侮辱された時だけなのだ。慎重に空気を読み、周囲を味方につけられる状況を確認したときしか、怒りを発露してはならないのだ。
ここまで偽善が周到に張り巡らされた世界に、ダイナミズムは生まれない。人間同士の荒っぽい感情の交歓にこそ、活力の源泉はある筈なのだが。
感情と論理
「空気を読めない」というフレーズは、KYとも呼ばれ、愚鈍な人を非難する言葉として一時期流行ったが、定番化するまでには至らなかった。むしろ、この言葉が象徴する、同調圧力に対する反発の声がじわじわと強まっているように思える。
場の空気を読めず、頓珍漢な振舞いをして嗤われるより、空気を読んでスマートな対応をしたほうがいいに決まっている。しかし、その空気が、従うべきでないものだった場合は? 多数で弱者をいじめる空気もあるだろう。倫理的に間違った方向に空気が暴走しているときもあるだろう。そこまで悪徳ではなくとも、ダサいセンスの同調圧力が発動されていることもある。
空気が良いものであれ、悪いものであれ、まずは読まないと対処はできない。そう意味で、空気を読めないのでは話にならない。しかし、必ずしも空気に従う必要はない。良くない空気は、換気したほうがいい。リセットして空気を換えるべきときもあるはずだ。
村社会的な同調圧力に対して、如何に自分の論理で立ち向かうか? 謝罪を巡る社会的な位相は、那辺に漂っている。阿部サダヲの謝罪支援は、同調圧力と個人の思いとの狭間で、何かを掴もうとして揺らいでいる。
宮藤官九郎の話術と思想
難しく書きすぎたが、謝罪を巡る6つのエピソードは、それぞれ滅法面白い。更に、それぞれのエピソード同士も巧みに絡み合っていて、伏線を回収する推理小説のようなエンタテイメント性も楽しめる。脚本を手掛けた宮藤官九郎の着眼点と話術の巧みさは、流石に素晴らしい。
阿部が謝罪を仕事にするきっかけになったのが、ラーメン屋でのエピソードだ。カウンターでラーメンを待っていた阿部の頬に、オーバーアクションに麺の湯切りを振り回した湯切り網から、数滴の熱湯が粒状に到達する。一粒、二粒であっても、これは熱い。火傷するほどではないが、立腹するのに充分な状況だ。
通ぶった飲食店は、粋だと感じている振舞いを全ての客に強要し、その戒律を守らない者を排除する。ラーメン屋もバーもクラブも、酒や食物そのものだけを消費する場所ではなく、空間が醸す空気を体感する場所であり、その精度を高めて価値を生むための戒律が重要なことは理解できる。そもそも資本主義は記号を消費させるのが本質なのだ。
しかし、阿部は同調圧力に屈しない。店がどんなに丁重に謝罪しようとも納得しない。湯切りをした店員個人に謝ってほしいだけなのだ。さまざまな文化の意匠をそぎ落としたシンプルな怒りの感情。「謝罪の王様」に登場する人物たちは、謝罪する人も謝罪される人も、同調圧力とは関係なく、シンプルに自分の怒りを怒り、怒られている。
素直な感情に従っていると、KYを誹られる可能性はあるのだが、そんな人々は、可愛らしく、魅力的なのだ。
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