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樋口真嗣監督 「シン・ゴジラ」 2016 感想

樋口真嗣監督 「シン・ゴジラ」 2016 感想

国難へ立ち向かうリアリズム

日本人は、2種類に分かれる。日本国が好きな人と、嫌いな人だ。私はこの映画を観て、更に日本が好きになった。

「シン・ゴジラ」は、ゴジラの上陸という国難に立ち向かう人々を描いている。昭和のゴジラシリーズで主人公を務めたのは、科学者やジャーナリストだった。若きジャーナリストは、真相を掴むために奔走し、重厚な老科学者が、怪獣の弱点を突き止める。少年向けの血沸き肉躍るストーリーは、高度経済成長期において、科学の更なる進化への期待感とリンクしていた。

しかし、2016年にそんな希望はない。国難には、政府と官僚が対応するのがリアリズムなのだ。指揮を執る内閣官房副長官(長谷川博己)は、傑出したヒーローではない。指導者は、「損切り」の決断を重ねていくしかないのだ。

「シン・ゴジラ」に登場する内閣は、決して重厚ではない。大杉漣が総理大臣、防衛大臣は余貴美子であり、中村育二、手塚とおる、矢島健一といった面々で組閣されている。彼等は、法律の解釈や施行の前例ばかり気にしており、マスコミの批判を怖れて決断できない。彼等を下支えする官僚も、縦割りに硬直していて、初期対応が遅い。

しかし、長谷川を中心に、徐々に組織が機能し始める。長谷川や、内閣官房長官代理である竹野内豊ら若手が調整を図り、総理に決断を促す。大杉の死後、急遽総理となる平泉成は、一見愚鈍なおっさんだが、愚鈍を貫き、竹野内や長谷川を信頼して決断していく。縦割組織のなかで、立場の相違から調整に苦慮していた官僚や自衛隊も、やがて国を守る使命に一致協力していく。

政治家も官僚も、マスコミに批判され尽くしているが、国の秩序を守っているのは、国民の代表である彼等であることを改めて認識させられる。

マスコミは登場しない

現在、コロナウイルスへの対策をめぐって、安倍内閣が批判にさらされている。政府や官僚が行うことは、全て批判するのがマスコミだ。しかし、マスコミに代案があるわけではない。これが、「日本という国が嫌いな人」の正体だ。彼等は、常に被害者のスタンスをまとう。「我々庶民が額に汗して働いているのに、生活が楽にならないのは、政府の無策のせいだ。」「自衛隊を海外に派遣して死者が出たら、どう責任をとるつもりだ。」

この映画にはマスコミがほとんど登場しない。SFパニックの常套として、被害の甚大さの報道や、政府の不手際を糾弾するシーンで、事態の深刻さは増幅されて描写されてきた。「シン・ゴジラ」でも、「ゴジラは上陸の恐れはない」という政府発表はものの見事に外れる。初期対応の誤りから被害を拡げた不手際は、糾弾されるべきかもしれない。官邸や国会、霞が関が、東京湾から遠くない場所に位置していることを考えると、もっと早く政府閣僚は臨時移動すべきだった。立川への移動の決断が遅れたせいで、首相や閣僚の多くが命を落としてしまう。

これは、コロナウイルスどころの被害ではない。しかし、マスコミや反日日本人の声を一切描かなかったところに、庵野総監督、樋口監督の強い意思を感じる。

批判のための批判しかしない民主党が政権をとったときの体たらくを、我々は経験している。台風や地震などの災害発生時に、マスコミが必要以上に不安を煽っていることも、もう気づいている。毎回繰り返して「もはやこれは天災ではなく、人災です。」と言うことも。

普通人が事態を解決する

ゴジラの上陸後、政府は「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」を設置し、長谷川が事務局長に就任する。各省庁から生物学や軍事のエキスパートが召集される。彼等は官僚らしく、粛々と仕事を進めるが、特に超人的な活躍をするわけではない。省庁間の同意やマスコミの反応への配慮も怠りなく考慮にいれながら、少しずつ、その間隙にて施策を立案していく。内閣の不作為を嘆くこともなく、淡々と施策を上申し、柔らかく決断を促す。

ここには、日本的組織の伝統が強く投影されている。権力の中枢にいた天皇は、やがて権威的存在となり、政務の実務組織である貴族や幕府が実験を握る。幕府の権力者である征夷大将軍もやがて権威となり、大老や老中が実験を握る。実務者が立案し、権力者は決断と責任を担う、という役割分担が巧みに機能してきたのが、日本の権力構造なのだ。そのことを熟知している長谷川と「巨災対」のメンバーは、「普通に」仕事をこなしていくだけなのだ。自衛隊統合幕僚長の國村隼は、「礼は要りません。仕事ですから」と宣う。特に気負っているわけでもなく、率直な気持ちなのだ。

ゴジラを凍結させる「ヤシオリ作戦」は成功し、被害は一旦収束する。しかし、壊滅状態になった都心部の復興や、被災者の生活再建、ズタズタになったインフラの復旧など、仕事は山積しているはずだ。だから、作戦の成功を見届けても、誰も快哉を叫ばない。国の仕事は永遠に終わらないのだ。

石原さとみの突出

普通人ばかりのなかに、日系米人の政府高官である石原さとみが登場する。英語と日本語を混ぜて会話する石原の高飛車ぶりは、明らかにこの映画のリアリズムを大きく逸脱している。彼女の存在だけが、昭和時代のゴジラ映画に出てくる「ガイジン」なのだ。

そもそも石原は、大統領の意志を政府に伝える高官には全く見えない。優秀な日本の官僚と比しても、頭が悪そうだ。米軍の密使だからこそ、普通の日本人らしいキャストを配したほうが、更にリアルだった筈なのに、リアリズムに徹した映画に於いて1点だけ、お約束の作為感をぶちかましているのだ。

この違和感は、恐らく作為的に配置されているものだろう。登場人物の家族や、恋愛などを一切排した、「仕事を遂行するだけ」の映画。普通、長谷川が「巨災対」に泊まり込んでいる間の、妻や幼い子供の様子が描かれたり、「巨災対」の女性メンバーとの間で淡い恋愛感情が産まれたりするものだが、そんな要素を排除した上での、石原の存在。

しかも、この役は、石原のパブリックイメージとは全く異なる。彼女はどちらかというと内向的な女性を演じてきたのではなかったか? 不器用なOLが、苦しみながらも芯の強さを発揮し、小さな幸福をゲットする。そんな普通の女性像を体現しているのが、石原さとみだ。制作サイドの意図は那辺にあり、石原サイドは何故このオファーを受けたのか?

謎は深まるばかりだが、当時30歳、美しさの絶頂にいた石原のセクシャリティーは、戯画的な意匠のうえで、キラキラと輝いている。そして、この真面目な映画のおふざけ/お色気要素として、忘れ難い印象を残していることも否定できない。

敵国侵攻のメタファー

ゴジラの上陸は、明らかに敵国侵攻のメタファーだ。北朝鮮の侵攻に対する政府の対応を描いた作品として、石侍露堂監督の映画「宣戦布告(2002)」、村上龍の小説「半島を出よ(2005)」がある。いずれも、緊急時に自衛隊の出動を決断できないであろう日本政府を痛烈に批判している。

しかし、「シン・ゴジラ」の大杉内閣は、初動に遅れはあったが、適切に自衛隊を出動させた。自衛隊や「巨災対」の普通の日本人たちが、知恵を集めて事態を解決させたのだ。

日本は決して愚かではないし、最終的には勝つ。私は日本を信じている。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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