常識的な感性
北野武は、ごく常識的な感性を持った人だ。往年のオールナイトニッポンのトークを聴くとわかる。たけしは、権力者と市井人、富豪と貧民が混在する社会の「狭間」に産まれる「間抜け」な状態を揶揄して笑いに転化した。漫才やコントでもこの「間抜け」を嗤い、かつ、愛着して表現した。「間抜け」の面白さを巧く表現するには、双方の感性を俯瞰して理解していなければならない。
たけしは、毒舌家としてのスタンスを築き、痛快な風刺で人気を得たのだが、ナイーブな感性を垣間見せることも多かった。少年のように素直な一面を見せられることによって、大衆はその人に好感を持つ。北野は、その法則を知り尽くしていた筈だが、人気取りのために、その側面を見せていたとは思えない。何故なら、その少年らしさは、普通の少年と同様であるように見せかけているが、実は背後に、薄っすらと虚無が見え隠れしているからだ。
1986年、フライデー襲撃事件が起こったとき、私は昂奮を覚えた。やはり、たけしは常識的な感性だけの人ではなかった。愛人への強引な取材に憤り、弟子を引き連れて深夜、講談社のフライデー編集部に殴り込んだ。全くもって格好のよい振舞ではない。しかし、私は、この愚挙に甘い虚無の分泌を感じた。「この男は、ただのお笑い芸人ではない。」
その3年後、北野武の初監督作品「その男、凶暴につき」は公開された。
暴力の日常性
「その男、凶暴につき」で、たけしは何度も暴力を振るう。映画冒頭、暴力はまず子供に振るわれる。浮浪者をいたぶった中学生の自宅に乗り込み、「自首しろ」と言いながら平手打ちを続ける。刑事であるたけしは、犯行も目撃しているので、現行犯逮捕もできたはずだ。平手打ちには、特に憎しみがこもっているわけでもなく、教育的な厳しさが注がれているようにも見えない。悪い奴は殴る、ただそれだけだ。
この事件だけではなく、たけしは、捜査において常に平気で暴力を振るう。おそらく理由は一つしかない。「悪い奴だから。」署長(佐野史郎)に幾度も叱責されるが、全く反省しない。しかしこの映画は、「はみだし刑事」の孤独なアウトローを抒情的に描いているわけではない。凶暴な男を派手に描いたヴァイオレンス映画でもない。虚無だ。この後の監督諸作において、より明確に露呈される「虚無」が、「その男、凶暴につき」の暴力の背後に巣食っている。
巨大な官僚機構である警察の中間管理職として、佐野は適切に職務をこなしている。しかし、犯罪者と直接向き合う刑事は、倫理的な規範で動いてはいない。たけしだけでなく、同僚の刑事たちもそうだ。彼等の眼光からは、荒ぶる暴力の兆しが放たれている。法を守る使命感ではない。闘争本能でもない。しかし彼等は、ただ荒っぽい野郎であり、そこには特に虚無はない。
そんな連中のなかで、一見たけしも同質に見える。たけしは捜査中もやる気がなく、めんどくさそうな顔をしている。容疑者を追って走るさまも、全くもって颯爽としていない。走り疲れて休んだりする。しかし、殴ったり蹴ったりし始めると、少し活き活きしてくる。幾度もコント上で軍団を蹴るたけしを見慣れている観客は、その動作を少しコミカルに感じたりもする。しかし、顔つきは全くコミカルではない。
暴力と虚無
日本は「空気」が支配している。コロナを怖がる「空気」、政府の対応を非難する「空気」。意思決定はロジカルなプロセスを経ることなく、その場の「空気」で決定する。では、「空気」は何をしようとしているのか。均質化と異質の排除だ。みんな一緒、全会一致。人がそれぞれ異なる感性を表すことは許されない。リーダー格は空気を作る主導権を握るが、決して独裁しない。少数意見者は、空気を読んで彼におもねるのだ。
自分の考えを述べることは、格好悪い。「空気」を読んで全会一致の同調圧力に従うのが大人の振舞いだ。この原始社会状態を脱するために、欧米は宗教と言葉を用いた。人間の行動規範は、あらかじめ神が決定している。人のすることは、言葉から呪術性を漂白し、論理力を蓄えることによって、「空気」を抹消することだ。民主主義とは、「空気」を排して論理を身に着ける営為なのだ。しかし、日本語は、論理の段階までたどり着いていない。むしろ言霊として、呪術的な「空気」を作る道具となっているのだ。
言葉を操るプロである北野の胸中に、自らの言葉でいとも簡単に作れてしまう「空気」に対する違和感が募っていたのではないか。この違和を打ち砕くには、物理的な力が必要だ。さすれば、セックスか暴力しかないのだが、暴力を振るうのも、かったるくてしかたがない。虚無がそこに忍び寄る。
白竜の暴力
対して、麻薬組織の幹部を演じる白竜。白竜は、言葉や空気や論理などまったく信じていない。生来の攻撃本能が研ぎ澄まされて、暴力を瑞々しく行使する。幾多のギャング映画に暴力者は登場してきたが、例えば70年代の東映を賑わせた菅原文太や松方弘樹のような人間臭さが、白竜にはない。菅原や松方は、闘争本能の昂りを荒々しいセックスで収めていたが、白竜は、暴力そのものの行使に本質的な快楽を味わっている。
爬虫類のようなヌメヌメして、男臭い汗をデオドラントした、生粋の殺し屋。痛覚を与えることの純粋な快楽。生存本能が伴う女性との性行為を忌避し、同調圧力など意に介さない快楽主義者に、虚無など入り込む隙はない。あえて言えば、自分自身が虚無となりおおせている。虚無に蝕まれているたけしは、虚無そのものである白竜に、明確な敵意を持つが、白竜近づき、暴力を振るうことで、更に深く虚無に蝕まれてしまう。
主演俳優としての存在感
「その男、凶暴につき」は、北野自身の脚本ではない。自身の脚本は、自ずと完全な北野ワールドとなったのだが、本作は、北野的な異物ストーリーではなく、通俗的な悪徳刑事の話がベースになっている。
処女作である「その男、凶暴につき」には、まだ自身の映画的センテンスを確立していない北野の瑞々しい感性が控えめに放出されている。ここには、虚無をどう映像に落とし込むかの企みはない。「戦場のメリークリスマス(1983)」、「夜叉(1985)」、「コミック雑誌なんかいらない(1986)」で掴みかけていた映画俳優としての存在感を、自身で演出してみたといったところだろう。
まだ映画作家としての北野武の異的な感性は、全面的には発散されてなく、どちらかというと、主演俳優としてのビートたけしを、映画監督北野武が、的確に演出してみせるところに力点がおかれている。ここまで的確に、自分自身を演出できるというのは、やはり人並み外れて常識的に揺るぎない感性を持っていた証拠だといえる。自身の男としての魅力は、中年期に入って渋みを増し、お笑いタレント異例の映画主演という話題性を超えて、主演俳優として堂々と鎮座できることを充分に確信している。その上で、自ずと虚無を漂わせているビートたけしに、ある程度自由に演技させる。俳優たけしは、北野監督の演出方針を正確に理解し、やり過ぎない程度に露悪的に振舞ってみせる。まずは処女作で、監督と主演俳優の二役をさすがの力量でこなしているのだ。
この後の作品では、事態は違ってくる。北野監督と俳優たけしは、確信犯的に同一化し、観客をおきざりにするほどの前衛世界を叩きつけて来たのだ。しかし、ビートたけしを凌駕するほどの俳優が、北野映画に現れていないことも事実である。
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