シネマ執事

森田芳光監督 「それから」 1985 レビュー

森田芳光と松田優作の挑戦

1980年代、松田優作は長髪を切り、アクションをやめた。きっかけは鈴木清順監督「陽炎座(1981)」だ。長い沈黙から復活し、気焔を吐いていた清順の面妖な世界に少し戸惑いながら迷い込んだようで、結果的には堂々と鎮座した。

鈴木清順が「ツィゴイネルワイゼン(1980)」「陽炎座」で描いた二十世紀初頭の世界。未だ江戸の名残りを充分に残しながら、ヨーロッパの華美な建築や服装を大胆に取り入れていた時代。和洋折衷のヴィジュアルは優れて映画的な背景であり、清順は虚像をもたっぷり孕んで、豪奢な光と闇を顕現させた。

市川崑も同時期、「細雪(1983)」「おはん(1984)」「映画女優(1987)」で二十世紀初頭の世界に吉永小百合を配置した。市川はスタイリッシュな映像感覚でこの時代の建築を優美に描き、何度目かの全盛期を迎えた。

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ここに挙げた清順や市川の諸作は、日本映画史上屈指の名作であるが、そんなベテラン監督に堂々と挑戦したのが、弱冠35歳の森田芳光だった。

森田の監督デビューは1981年であるが、既に「家族ゲーム(1983)」という傑作によって、80年代という新しくも軽い時代を体現する映画作家として高い評価を獲得していた。「家族ゲーム」を共に成功に導いた森田芳光と松田優作が、再びタッグを組む。しかも、これまでの森田の作風とは全く異なると思われる夏目漱石の小説が原作だ。当時大きな話題を呼んだが、結果として、森田にとっても松田にとっても最高傑作ともいえる、絶対にこの時代の日本映画にしか作りえない、独自の映像感覚を世に刻んだのだ。

無為の青年

1970年代、松田優作は刑事や犯罪者を演じてきた。長い手足で疾走し、格闘し、銃を撃つ。敵を脅す低い声。法や道徳に縛られることなく、自らの意志や欲望のために行為する男。優作の存在感は唯一無二であり、古今東西比肩するもながなく、日本映画史上最高のアクションスターとして崇拝され続けている。

その松田優作が、無為の男を演じるのだ。

優作演じる主人公は裕福な家に育ち、大学卒業後もあえて就職していない。結婚もしない。自身に全く収入がないのだが、かなり広い一戸建てに一人で暮らし、書生や召使の老婆まで雇っている。毎日本を読んだり、音楽会にでかけたりの気ままな生活を送り、芸者遊びや女郎屋通いなどもしている高等遊民だ。両親や親族、友人はやんわりとその無為を詰問するが、意に介しない。金のためにあくせく労働することを軽蔑しており、家族の係累からも離れて孤独を楽しみたいのだろう。

そんな優作の大学時代からの友人が小林薫で、その細君が藤谷美和子だ。と書けば、後は分かり易い三角関係だ。優作は昔から藤谷が好きだったのだが、そのことを黙っていて、小林の求愛を応援した。しかし、久しぶりに会った二人に、恋の炎が再燃した。現代ではごくありふれた話だが、性道徳が非常に厳しかった明治時代であれば、この不倫は命がけのものとなる。叶い難いからこそ、燃え盛りもしたのだろう。

この無為の権化のような高等遊民を、強盗や殺人や発砲などの激しい違法行為を平然と行ってきた松田優作が演じるのだ。

小林薫の逸脱

若くして亡くなった優作とは対照的に、現在まで演技派俳優としてのキャリアを着々と固めているのが小林薫だ。ルックスもキャラクターも平凡な男性である小林は、平凡な男性の弱さや、意外な逞しさを少しウェットに演じて来た。高倉健が演じる男の哀愁は、高倉という無二の存在故に、実はカッコ良すぎる。より庶民的な存在感をじっくり醸成してきたのが小林だろう。

「真夜中の招待状(1981)」「秘密(1999)」「コキーユ(1999)」「たみおのしあわせ(2008)」などが忘れ難い。そんな小林が、例外的にぶっとんでいたのが、森田作品「それから」「そろばんずく(1986)」だ。

「それから」での優作と小林の友人関係は、なかなか良きものに描かれる。無為の優作と、銀行の仕事で苦労している小林が互いの自宅で酒を酌み交わす。気の置けない男同士の友情はなかなか微笑ましい。少し嫌味な話し方をする小林が、優作の無職と独身を揶揄する。優作は、あまり気にも留めている風でもなく、軽く受け流す。

しかし、優作との藤谷の精神的姦通が露見することで、決定的な崩壊が訪れる。このときの小林薫が素晴らしい。女を盗られることは、如何に現代であっても、相当悔しい。これ以上ダメージの大きい悔しさはないのではないか。裏切った女への怒りや憎しみ、しかし戻ってきてほしい気持ち、盗った男への憎しみ。そういう境遇になった不運を嘆いたり、そういう状況を食い止められなかった自らの愚かさを責めたり。様々な感情がない交ぜになって胸中を揺さぶられる。それなのに、取り乱した無様な姿は見られたくないといったプライドもある。

そんなコキュの心情を完璧に表現して見せた小林薫の演技が、この傑作の大きな一本の柱として聳えている。

明治=1980年代

森田芳光が一貫して描いてきたのは、社会への疎外感だ。ひきこもりのように全く社会との接点を持たない種類の疎外ではない。むしろ社会との接点を日常的に持っているからこそ、社会に違和を感じるのだ。

優作は小林に言う。「社会には昔から出ている。君がいる社会とは別の社会なだけだ。」社会権力は秩序を維持するために、法律を作り、国民に遵守を強制する。それに対して国民は、社会権力に半ばおもねり、半ば反発している。文学者や映画監督や高等遊民は、そんな国民の醸成する情緒的な空気に馴染めず、孤立する。

夏目漱石は、一貫して孤立する男を描いた。社会に巧く溶け込めず、過剰に抽象的に悩む男の姿は、漱石自身の投影なのだろう。

森田芳光は、1980年代価値相対主義の興隆を担った。全ての価値を嘲笑い、記号を消費することが大衆の快楽であると説く社会。真面目さを否定し、いつもふざけて笑っていることこそが愉しく暮らす秘訣だ。

森田は、自身がその一旦を担っている相対主義を疑ってはいる。強力な同調圧力に抗うことはなかなかできないが、その本質を見極めることはできる。森田は、「空気」を構成しながら、その「空気」に違和を感じることを主題として、「空気」のありさまや「空気」を読めない人を描いた作家なのだ。

森田の作品には、コミュニケーションを安定させている集団は登場しない。「それから」に登場する優作の父(笠智衆)、兄(中村嘉葎雄)やその周辺の裕福なひとたちの集いは、いささか無理をしているように見える。彼等は、伝統に根差した存在でもなければ、確固とした目的を共有しているわけでもなく、ただ世の中の流れを泳いでいるだけの存在なのだ。彼等の醸成している「空気」は価値相対主義的であり、彼等は、記号を消費する1980年代的存在なのだ。

これはもちろん偶然ではない。森田は、明治時代の文豪の名作のなかに、価値相対主義や高等遊民という1980年代的主題を汲み取り、作品に投影しているのだ。そして、その作品世界のど真ん中に、松田優作という圧倒的な有為の存在をぶち込んだ。優作は、森田の企みを充分理解した上で、無為が有為以上に存在感とスリルを産んでしまうという、動かないアクションを披露して見せたのだ。

しかし、ここでの優作の所作の一つ一つの深さは尋常ではない。その全てを味わいつくすには、この異端の傑作を少なくとも10回以上は見なければならないだろう。

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佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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