芸術とエンタテイメント
映画は、芸術だ。多くのスタッフやキャストが結集して完成するが、成果物は映画監督個人の芸術作品だ。同時に映画は、血沸き肉躍るエンタテイメントでもある。この両立性こそ、映画の最大の魅力だ。文学は、作家ひとりが執筆することで完結する。作家の芸術的感性は、ほぼ何物にも邪魔されず、ストレートに文章となり、活字となる。
映画の元素である脚本は、映像化される際に、大きくその姿を変える。映像と音声こそが映画の構成要素だからだ。映像を撮影しているのがカメラマンであり、台詞を話すのが俳優だとしても、その全てを差配するのが映画監督である限り、映画は監督の作品なのだ。原作者である脚本家でもなく、実演者である俳優でもなく、演出家たる監督こそが著作者である点に、映画の複層的な特異性がある。
監督のこころに芸術的野心が燃え盛る。やむに已まれぬ感性を作品化する。しかし、彼は実演しない。スタッフやキャストに指示して差配する、棟梁なのだ。この過程において、芸術的野心とは異なる志向性が産まれる。個人の感性よりも、チームの結集力を重視する想いだ。俳優のヴィジュアルや表現力を崇める想いだ。かくて、完成する作品に、監督の名前が大きくクローズアップされるとは限らない。
観客は、映画館の暗闇で、見知らぬ人々と物語を共有する。映画は、文学のように作者と受け手がサシで相対しないのだ。制作サイドにも多くの人が関わり、観客も劇場の空気に影響を受ける。こうして、映画作品には、複層的な社会性が纏われる。
日本や欧州の映画作家が、それでも個人的な芸術家志向が強いとするならば、ハリウッドの映画監督は、マーケティングに長けたエンタテイナーだ。ヒッチコック、スピルバーグ、ルーカス。
そして、黒澤明こそが、日本映画史上最強のエンタテイナーだ。
ビジネスマンと職人
靴製造会社の常務である三船敏郎は、横浜・浅間台の邸宅に住んでいる。三船邸の居間から、横浜の全景が見渡せる。波止場、工場、百貨店、住宅、繁華街、行き交う自動車、戦後の躁状態を生き抜く、まだ貧しい人々。三船は、一介の靴職人から成り上がり、いまでは、会社の実権を巡って他の役員と対立している。庶民の生活を見下ろすような高台の邸宅に住んでいるが、産まれながらのエスタブリッシュメントではない。
製造部門の責任者である三船は、目先の利益やブランドイメージよりも、良き製品を作ることにこだわりを持っている。女性用の靴を主に製造しているが、デザインよりも実用性を重視している、職人肌の男だ。ここには、明快な対立軸がある。三船は、営利企業の利益追求よりも、人間の活動の基本である「歩く」ことを、まさに「足」となって下支えすることを目指しているのだ。
三船のもとに、誘拐犯から脅迫電話がかかる。三船の息子と運転手の息子を間違えて誘拐していたことがわかるが、機転の利く誘拐犯は動揺しない。正義感である三船には、他人の息子こそ、見殺しにはできないはずだからだ。
仲代達矢演じる警部が捜査陣を率いて到着する。難事件に立ち向かう仲代と部下たちには、黒澤監督とスタッフの団結力が投影されている。昨今の刑事ドラマのように、所轄と本庁の対立、警視庁と神奈川県警の縄張り争いといったような、警察組織の矛盾が描かれることはない。刑事たちは、率直に悪を憎んでおり、仲代の指示どおり、敏速かつ愚直に仕事を遂行する。神奈川県警の幹部たち(志村喬/藤田進)は、現場を取り仕切る仲代に権限を委譲し、大きく統括している。
「横浜映画」の最高傑作
映画は、横浜を中核に、神奈川県を舞台に描かれる。浅間台の三船邸。誘拐犯である山崎努が勤務する病院や浅間町のアパート。大岡川あたりを聴き込み捜査する刑事たち。身代金は、小田原近郊の酒匂川に架かる東海道線の鉄橋で行われる。山崎の共犯者たちは、鎌倉・腰越に潜伏しており、江ノ電沿線を刑事が捜索する。
圧巻なのは、伊勢佐木町から黄金町界隈の猥雑な活気の描写だ。実在した酒場「根岸屋」には、米兵や売春婦に混じって勤め人や学生まで、雑多な人々が酒を飲み、飯を食らう。伊勢佐木町は、現在のうら寂しい佇まいとは違い、華やかな活気に満ち溢れている。ひっきりなしに自動車が行きかい、ウィンドウショッピングをする若い人たちが愉し気に闊歩している。
裏路地に一歩踏み入れれば、黄金町だ。ヘロイン中毒のジャンキーたちが力なく屯する魔窟も実在したのだろうか。現在の黄金町は風俗街となっており、京急黄金町駅から、地下鉄阪東橋駅あたりまでを歩くと、いかがわしい空気は残存している。
インターンである山崎は、様々な薬物を病院で工面し、黄金町で売りさばいて小金を得ている。高度経済成長真っただ中。港町、横浜は東京よりもスノッブで繁華で、いかがわしい街だった。そんな横浜では、酒や女や麻薬の快楽に溺れる人々は多い。身を持ち崩すほどではなくとも、粋がった不良たちは、そんな空気が充満する街に屯し、ワイルドな悪の世界に接続しようとする。
しかし、真摯なインテリである山崎にそんな志向や嗜好はない。むしろ、愚民として軽蔑している。医師を志し、社会正義への渇望も強い男は、靴会社の重役を資本家の手先として敵視しているのだ。分かり易い図式は、東京が舞台であれば、マスコミや政治家や芸術家といった浮薄な成功者が絡んでくる。地方都市であれば、地域のドンとヤクザの封建的支配が描写される。
しかし、横浜では、ジャンキーと医師と猥雑な街が描かれるのだ。
職人と芸術家
三船敏郎は職人だ。職人が公的に組織化されているのが神奈川県警だ。靴会社の役員たちは、カリカチュアされた資本家だ。そして、無知でその場凌ぎの快楽に耽る、港町の蓮っ葉な庶民たち。三船の腹心の部下である三橋達也は、頭は切れるが、肝の据わっていない小物として、三船に断罪される。
三船が黒澤明自身の投影だとすれば、三橋は、東宝の助監督たちを象徴しているのかもしれない。例えば、本作の監督助手を務める森谷司郎か。器用に仕事はこなすが、太い芯を作品の背骨として据える肝が据わっていないように、黒澤には見えたのかもしれない。本作直後に監督デビューした森谷は、70年代以降、「日本沈没(1973)」「八甲田山(1977)」「海峡(1982)」といった骨太な大作を連打し、高倉健の新境地を切り開いた一人ともなるのだが。
黒澤の存在があまりにも屹立し過ぎたのか、東宝はクレイジーとゴジラのシリーズものに頼るような体質となり、その後、巨匠や鬼才と言えるほどの映画監督を輩出することはなかった。70年代後半の東宝を救うのは、市川崑や山口百恵といった、外部の血であった。
山崎努は医師なのだが、人道主義に燃える正義漢でもなく、権力闘争に没頭するでもなく、金の亡者でもない。社会の矛盾に苛立つ、感性の鋭い芸術家肌の若者なのだ。山崎に象徴されているのは、左翼的なスタンスで反体制を気取る、インテリ学生なのだろう。大島渚や篠田正浩など、松竹ヌーベルバーグを指しているのかもしれない。
特に大島は、滅法頭が良く、ラディカルに体制を批判する。批判の矛先は自ずと日本という国家に向かい、国家権力の腐敗を鋭く攻撃する。攻撃の膂力は強靭であるし、論理力は、明晰で鋭い。
しかし、攻撃し、破壊できたとして、そのあとどうするんだ。壊しっぱなしでいいのか。ラストシーン、刑務所での三船と山崎の面会は、そんなことを示唆しているのだろう。
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