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鈴木清順監督 「ツィゴイネルワイゼン」 1980 感想

鈴木清順監督 「ツィゴイネルワイゼン」 1980 感想

抽象芸術としての映画

この映画には、ストーリーがない。鈴木清順が嗜好する風景や、言葉の断片を、幾重にも折り重ねているだけだ。私は高校生のとき初めて「ツィゴイネルワイゼン」を観て、驚いた。子供のころ、映画やドラマは「お話」だと思っていた。魅力的な主人公が颯爽と活躍したり、懊悩したりする。家族や恋人との関係は大きな歓びを産むが、挫折することもある。物語は、ハッピーエンドに終わったり、主人公の死で結末を迎えたりする。SFは未来や宇宙への想像力を誘い、殺人事件は、名探偵によって解決される。

「ツィゴイネルワイゼン」に、万人が楽しめるエンタテイメントのフォーマットは必要ない。鈴木清順が、独自の映像的感性をフィルムに焼き付けるだけだ。観客の反応を忖度などしない。鎌倉の幻想的な風景を傍若無人な原田芳雄が闊歩する。わかりやすい意味性は排除され、映像は抽象度を高める。

高校生の私は、こんな自分勝手なものを作る大人がいることに、驚いたのだ。

異端の映像作家

鈴木清順は、1956年の監督デビューから、1967年の「殺しの烙印」まで、40本の映画を日活で撮影している。日本映画の黄金時代を支えた日活は、作品を量産していたわけだが、清順は、一線級の監督だったわけではない。日活の頂点にたつスターは石原裕次郎だったが、清順は裕次郎の出演作を一本も撮っていない。裕次郎の主演作の添え物として、二本立てで上映されるB級作品を撮り続け、日活の量産体制を下支えしたのだ。

裕次郎や、小林旭、宍戸錠の男性的なアクションで人気を博した日活は、ギャングが拳銃を撃ちあう犯罪アクションを製作し続けた。筋立ては、どれも同じようなものだ。清順は、会社お仕着せの企画を逆手にとった。基本フォーマットさえ会社に従えば、細部は自分勝手な感性を映像化しても、あまり気づかれない。ドライな犯罪アクションのフォーマットは、清順のオッドな感性を忍び込ませるのに適していた。

「野獣の青春(1963)」や「肉体の門(1964)」の原色を極端に強調したアナーキーな色彩感覚。「河内カルメン(1966)」で見せた刹那的な性のクールな断片化。日活フォーマットを自虐的にパロディ化した「殺しの烙印(1967)」。

しかし、次第に清順の強すぎる個性は、隠しきれなくなり、「わけのわからない映画を作る」という理由で日活から解雇される。

10年ほど、映画を撮れない状況が続いた後の復帰作「悲愁物語(1977)」は女子ゴルファーを主人公とした話だったが、定型フォーマットを外れた清順は、フルスロットルで暴走し、相当ヘンな映画に仕上がった。そして、復帰二作目のツィゴイネルワイゼン」では、「大正時代」という自身のフォーマットを創出したのだ。

「大正」というアナーキーな折衷の時代

大正は、1912年に始まり、1926年に終わっている。1923年生まれの清順は、ごく幼少の頃、大正をリアルに体験していることになる。薩長藩閥が新国家を建設したのが明治ならば、敗戦までの昭和は、軍部がアジアを征服し、欧米と戦った時代だ。国家が国際的な荒波に揉まれたのが、明治と昭和であるならば、大正はその狭間で、民衆の活力がアナーキーに勃興した時代だと言える。

政党政治が始まり、民主主義が本格的に成長し始める。第一次世界大戦に巧く乗っかった好景気は、関東大震災によって壊滅する。映画や演劇、レコード音楽が庶民の間に広がる。「カフェ」や「レストラン」「ダンスホール」の登場により、都市の繁華街は、和洋折衷の新たな相貌を見せ始める。上流階級には自動車の所有も普及し始め、欧米物質文明の享受が始まる。

「折衷」がキーワードだ。当時、欧米はほぼ世界を征服していた。アジアやアフリカのほとんどがを植民地し、アメリカ大陸では、原住民をほぼ絶滅させた。圧倒的な経済力と軍事力で覇権を握っていたのは、英国だったが、植民地国家である米国の下克上も萌芽していた。第二次大戦後、植民地は解放されたが、土地に根差した文化は、既に失われてしまっていた。

例外は、日本だ。欧州よりも永い歴史を持つ日本文明は、しっかりとそのオリジナリティーを残存させながら、欧米文化を取り入れた。異質な文明の融合は、新奇な意匠を纏いつつも、やがてそれ自身も深化していく。大正とは、そのハイブリッド文化が始まった時代なのだろう。

鈴木清順の美意識

藤田敏八は、陸軍士官学校のドイツ語教授だ。原田芳雄は、元同僚だ。原田は、あてのない旅を繰り返しており、藤田も時折同道している。「陸軍」「ドイツ語」といった言葉が象徴的だ。実業としての生産に携わらず、国際化の空気を吸っているインテリが大正時代に登場していたのだ。

彼等が住まうのは、鎌倉だ。しかし、小津安二郎が描く鎌倉とは、趣向が違う。蕎麦や鰻を老舗で食らう食文化の嗜好は、小津と同じだが、小津が日本的文化の「記号」として蕎麦や鰻を愛でたのに対して、清順は、耽美的かつ、露悪的な感性を表出する。原田の食べ方は、がつがつしていて汚い。原田は、女に眼球を舐めさせたりもする。鰻の肝で夫に精をつけさせる樹木希林の挿話。麿赤児率いる盲目の門付は、コミカルというより、グロテスクだ。

中年女性がこぞって訪れる和の観光地の鄙びた美しさ。ここには、デオドラントされた潔癖な偽善性が纏わっている。現在の鎌倉の上得意は、吉永小百合の知的さを憧憬する彼女たちなのだろう。

鈴木清順は、ほとんど風呂に入らず、歯も磨かなかったらしい。実際の大正時代は、まだまだ衛生的ではなく、道徳的でもなかったのだ。

主演俳優の存在感

原田芳雄は、いつもの原田芳雄だ。清順の美意識に即しており、かつ圧倒的に巧い俳優だ。しかし、原田自身も、この作品で、大きく存在感を深めたとも言える。

藤田敏八の本業は、映画監督だ。日活時代の清順の後輩に当たる。清順解雇後の日活は、ポルノとヤサグレ路線に転換したのだが、藤田は青年や少女の閉塞感を瑞々しく描き、「にっかつ」の新しいカラーを確立した。そんな藤田を俳優として起用した清順の目論見は見事に成功した。

「ツィゴイネルワイゼン」の藤田は、常識的な紳士だが、荒唐無稽な原田の振舞いを、時には窘めながら、羨んでもいる。倫理性が高いが、論理的思考力も高いので、閉鎖的な空気感に絡めとられず、端然としている中年男。大正時代のインテリを代表するような人物だ。彼を起点として、原田の妻である大谷直子と自身の妻である大楠道代が、対照的に描かれる。貧しく育った芸者である大谷の、古風な気風の良さ。甘やかされて育った良家の子女であろう大楠の幼児性。大正の時代背景をすんなり着こなしている彼女たちの艶やかさが、映画に妖艶さを与えている。女性の美しさを綺麗に描くのは、清順美学の重要な要素の一つだ。好みは大谷なのだろう。

幽玄な幻燈

和装の大谷と洋装の大楠。原田の住む山あいの日本家屋と藤田の住む洋館。和洋折衷はここでも日本的な美意識を顕現させる。サラサーテ作曲の「ツィゴイネルワイゼン」のレコード。鎌倉釈迦堂の切通し、大磯海岸、大井川を渡す蓬莱橋。日本の歴史が紡いできた幽玄な美意識と、欧州の狡猾で冷酷な傲慢が、意味性を排除され、ただ豪奢な映像としてたゆたうように続いていく。鈴木清順の幽玄な幻燈は、「陽炎座(1981)」「夢二(1991)」と続くが、「ツィゴイネルワイゼン」こそが最高傑作だ。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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