雪景色と高倉健
高倉健は、いつも吹雪のなかを歩いている。厳しい寒さのなか、黙々と労働する男、それが高倉健だ。「夜叉」の舞台は、若狭湾の小さな漁港である。高倉は漁師だ。妻(いしだあゆみ)と妻の母(乙羽信子)、子供3人を養っている。田中邦衛や丹古母鬼馬二など、漁師仲間からも篤く信頼されている。
福井県美浜町と若狭町にある5つの湖の総称を「三方五湖」という。若狭湾は、複雑に入り組んだ海岸線を持つが、更に「三方五湖」が隣接しており、陸地と水辺が奇勝なコントラストを形どっている。そんな土地に雪がしっとりと降り積もり、幽玄な異境の光景を呈している。
港町の住居や街並みには、古い歴史の積み重ねがどっしりと根を下ろしている。北陸のなかでも舞鶴や天橋立に近いこのあたりは、関西の文化圏だ。大阪・ミナミとの往還がこの映画の大きな主題ともなっている。美しい風景はそれだけでも充分絵になるが、この港町に高倉健が暮らし、漁を営んでいるのだ。この絵柄は、ほとんど美術工芸品だ。
もっとも、高倉は少し格好良すぎる。田中や丹古母たちのほうが、リアルに田舎の漁師だ。高倉健が映画スターとして君臨し続けたのは、東映のヤクザ映画だった。極道の猛々しさと粋を寡黙に体現したアウトローの美学。1980年代の降旗康男監督とのコラボ諸作は、そのテイストをソフィスティケートした傑作群だが、「夜叉」の映像の美しさは、その頂点に立つ。健さんは、格好良すぎていいのだ。
旬の助演俳優陣
いしだあゆみは、いつもの、いしだあゆみだ。身勝手な男に翻弄され、神経を高ぶらせながらも、必死に自身の大事なポイントを守ろうとする女。元ヤクザと知りながら高倉を愛し、平凡な家庭を作ろうとする妻だが、高倉同様、いしだも平凡な女などではない。
田中裕子は、ミナミから流れてきて、港町に居酒屋を開く。仇っぽい色香で漁師たちを魅了し、店は繁盛する。しかし、生来田中は、色っぽい女ではない。事務職OLが似合うような地味な女だ。プロの女優として、本来の自分とは異なる役柄に挑戦し、そのパーソナリティを獲得するごとに、本来の自信も更新されていったのではないか。そんな更新をスタートし始めた頃の田中は、生々しくときめいている。
ビートたけしは、「戦場のメリークリスマス」で俳優としてブレイクした少し後、お笑いタレントとしての絶頂期のころだ。俳優としてのたけしは、自身の監督作への出演も含めて、ほとんど同じキャラで存在感を示しているが、この頃はまだ、ちんちくりんなダメ男だ。田中裕子のヒモとして港町に現れるたけしは、麻薬を漁師たちに売りさばくが、自身も重篤な中毒であり、ミナミのヤクザに多額の借金を背負っている。こんな小悪党が、刃物を振りかざして、風光明媚な港町を走り回る。本物の極道である高倉との対決は、映画史に残るシーンだろう。
日本海と大阪のコントラスト
たけしは、借金で首が回らなくなり、ミナミのヤクザに軟禁される。高倉が助けに行く。ミナミへ戻っていくとき、漁師の朴訥さの面影は一掃され、「切った張った」の世界に住む玄人の顔つきになる。
敦賀駅から大阪駅まで、そう遠くない。特急サンダーバードで、1時間半足らずだ。陸と海の端境の、雪に閉ざされた世界から、ミナミの猥雑なネオンに舞台は移される。
道頓堀、千日前あたり。大阪風の馴れ馴れしさをフィーチャーしながら、大都会の本質である酷薄さも複雑にミックスされ、日本中でここにしかない空気を漂わせている。この地で飲み疲れた果てにどんより歩く際の、不思議に優しい空気。水商売の女たちの爛れた倦怠感。関西最大の都会、歴史の重みをどっしりと感じさせられる。
高倉は、関東のヤクザを演じることが多く、関西風のえげつない空気は纏っていない。たけしも、生粋の関東人だ。役の設定では、高倉は「ミナミの夜叉」なのだが、ディスコ風の悪趣味な店に軟禁されたたけしを取返しにいくシーンでは、関東人が、異境の大阪ヤクザの本丸に乗り込んでいくような様相を帯びる。このシチュエーションで高倉を上回る侠気を発散する男は、古今東西存在しない。立ち回りはあくまで渋く、あまりにも鮮やかで、暴力的な性的オーラを強く発光している。
対して、救われて逃げるたけし。卑怯で気が弱いのに、身分不相応に虚勢を張って、大げさなことをやらかしてしまう男。母性本能をくすぐって、女を食いものにしているようでいて、実は女に依存している男。
高倉ほどに強い男など、現実にはそうそういない。暴力の闘いを勝ち抜く世界に生きていないと、ここまで肝の据わった男にはなれない。しかし、たけしのように自堕落に落ちていくことにも、別の覚悟がいる。
ほとんどの男は、若狭湾でもミナミでもなく、埼玉に住んでいるのだ。
降旗康男の美学
降旗康男は1963年に東映で監督デビューし、高倉健の主演作を撮り続けた。二人のコラボは、東映という会社が決めた配置だったのだが、双方が東映を退社後も、晩年まで並走を続けた盟友である。
東映時代の「捨て身のならず者(1970)」では、高倉のお洒落なスタイリッシュぶりが印象に残る。三つボタンのスーツと、ステンカラーコートの着こなしが抜群。「不器用」が代名詞の高倉だが、「夜叉」での、セーターと長ゴム靴の漁師姿もバッチリ決まっていて、他の漁師たちと差別化されている。「あ・うん(1989)」では、昭和初期の美しい街並みを背景に、富司純子、板東英二との絶妙なコラボを見せた。ここでも高倉の三つ揃いスーツ姿は、惚れ惚れするような男っぷりだ。
降旗は、強い作家性を持つ映画監督ではない。市井に生きる一般の人たちのドラマを、味わい深く描き、大衆にウェルメイドなエンタテイメントを提供した職人だ。東京よりも、地方の街を滋味深く映した映像が印象に残る。「駅 STATION(1981)」、「居酒屋兆治(1983)」で描いた北海道の雪景色にも、高倉の姿がどっしりと聳えていた。
高倉もまた、エキセントリックな個性を売り物にする俳優ではない。禁欲的に私生活までも律して、謙虚な姿勢で撮影に臨んでいたさまは、多くの逸話が物語っている。
正義を貫き、情に厚い男。無駄口は叩かず、黙々と肉体労働する。しかし、ここぞというところでは、激昂もし、暴力も振るう。キーワードは肉体労働だ。
はぐれ者の美学
明治維新以後、昭和まで、男の仕事は肉体労働だった。トンネル工事、道路工事などの建設業に従事する男たち。農村の村社会とは違い、彼等は短期に雇われたよそ者、流れ者だった。農村の畑仕事は、血族が長期的に運営している仕事であり、労働は女房や家族とシェアされ、生活すべてが労働に直結していた。
自動車道路、海岸や河川の護岸や橋梁、鉄道の線路やトンネル。日本の近代化にあたって、国土が急ピッチで整備された。剛健な男たちの腕力が作り上げたインフラの利便性を、現代、我々はたっぷりと享受しているが、もう肉体労働している男は少ない。
昭和時代、男だけの肉体労働の現場、仕事後の安い酒場。単細胞で荒々しい彼等は、喧嘩っぱやく、強い男を尊敬していた。彼等の「兄貴」を体現していたのが高倉健だったのだ。
「夜叉」の高倉も漁師仲間から尊敬されているのだが、土地に根差した男ではない。ヤクザの成れの果てであるからこそ、はぐれ者のオーラが男の美学を発散し、「兄貴」として慕われるのだ。
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